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「日本の学校教育は、政府が国民に頼んで学校に来てもらうところから始まった」~のちに禍根を残さないよう言うべきことは言っておく③

 日本の学校教育は国民に政府が頭を下げ、
 学校に来ていただくところから始まった。
 だから「学校がすべての責任を負います」と言わざるを得ず、
 だから教員の日常は今も苦しい。
という話。(写真:フォトAC)

【日本では学校が子どものすべてについて責任を負う】 

 日本の教員がかくも過重労働を強いられ、過労死基準をはるかに上回る時間外労働をしなくてはならなくなったことには、構造的な理由があります。それは日本の公教育が最初から教科教育だけでなく、より良い人間関係・社会関係の教育(広義の道徳教育)や健康教育にも責任を持つと表明してきたからです。
 欧米ではキリスト教会が、アラブではイスラム教会が、そして近代の中国やロシア・北朝鮮では党中央が担った社会関係・人間関係の学びを、日本では学校が担おうとしたことが特に大きかったようです。なぜそんな重荷を背負うことになったのかというと、それには二つの大きな理由がありました。
 
 ひとつは、日本には日本国民の核となるような精神的な柱がないことに対する、明治時代の為政者たちの怯えです。
 何やかや言っても欧米人にはキリスト教があるじゃないか、いざとなったら教会が中心となって人々をひとつにまとめることができる、対立した者同士もキリストの名のもとに和解できる、それなのに日本はどうだ、「お国は?」と国籍を問えば、「会津」だの「三河」だのと言って「日本」と答えるものは一人もいない。我々は何を核としてこの国をまとめて行けばいいのか――。
 とりあえず仏教と神道という国内の二大宗教のひとつを排して(廃仏毀釈)、神道一本でやり始めた(国家神道)もののなかなかしっくりきません。そうかと思うと逆に極端な欧化政策を採ってみたり(鹿鳴館時代)また戻したり――学校教育もそれに準じてふらつくわけです。
 
 明治22年(1889年)自由民権運動という国家を二分する政治闘争を経て憲法が制定されると、翌明治23年(1890年)「教育勅語」が下され、「修身」の授業が始まります。国家が、幼い国民の精神を直接、育てようとし始めます。これが道徳教育に繋がってきます。

【政府は国民に頭を下げて学校に来てもらった】

 社会関係・人間関係の学びばかりか健康教育をも学校が背負うことになったもうひとつの理由は、明治6年1873年)の学制発布に遡って、日本の公教育が「子どもに、学校へ来ていただく」という極めて低姿勢な形で始められたことと関係します。

 諸外国では、例えばインドでは植民地時代に東インド会社の社員の妻たちが、アメリカでは開拓時代に宣教師たちが、そして革命前夜のロシアでは“ナロードニキ”と呼ばれる貴族の子弟たちが、誠実ではありましたが「無知な国民に教育を授ける」といった上から見おろす態度で学校教育を始めようとしました。それがよくある国民教育の始まり方です。
 しかし日中に働き手である子どもを学校に奪って行く話なのにその態度ですから、農民の抵抗は驚くほど激しく、ロシアでは“ナロードニキ”たちが農村から放逐され、アメリカでは開拓時代、「殺人事件の被害者を職業別に並べれば一位になるのは教師だろう」と言われるほど多くが殺されました。
 ところが我が国では農家から日中の働き手を奪うだけでなく、校舎の建設費まで出させようという話で、一層の反発があってもよさそうなものでしたが、実際にはそうはなりませんでした。県令(現在の県知事)も村長も、校長も一般の教員も、実に辛抱強く、子と親に学校にくるよう説得し続けたのです。その子にとって勉強がいかに大切か、そのために大人たちがどれほど協力できるのか――。中には県令が歩いて農家を一軒一軒回り、子どもを学校に出すように熱心に口説いて回ったという話も残っているくらいです。

 不平等条約を押しつけられて三流国扱いにされている日本を、一刻も早く欧米に近づけ、追い越すためには国民の教育水準の上昇はぜひとも必要で、それがなければ「殖産興業」も「富国強兵」も絵に描いた餅になってしまいます。だから子どもたちには学校へ絶対に来てもらう必要があり、そのためなら旧士族が平民に頭を下げるのも厭わなかったのです。
「学制序文」と呼ばれる「学制」の最初の部分に書かれている言わば決意書には、
「邑(むら)に不学の戸(こ)なく家に不学の人なからしめんことを期す」
という有名な一節がありますが、明治政府は本気でこれを追求しようとしたのです。

【親を甘やかす知・徳・体のバランスの取れた総合的な教育】

 「知・徳・体」という概念はイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが『教育論』(1861年)などで「知育」「徳育」「体育」の3育を教育の基本原理として示したのが始まりと言われています。それを福沢諭吉が『学問のすゝめ』(1872年)で紹介し、日本の近代教育の始まりとともに普及し広まりました。
 ただし福沢諭吉の提唱以来、3育の導入が順調に進んだというのではありません。「徳育」は最初に紹介した「教育勅語」を皮切りに、「体育」は日清・日露戦争の軍事教練として学校の中に定着していったものです。
 しかし「知育」「徳育」「体育」のすべてを学校が背負う必然性は、本来なかったはずです。実際、多くの国では「知育」だけが学校の責務です。それなのに日本は三つとも背負ってしまった。
 もしかしたらそこには明治政府の”怯え”(日本には精神的支柱がない、いつバラバラになっても不思議はない)がずっと続いていて、「子どもの教育を全面的に国家のものしてしまうことの方が楽なのかもしれない」といった計算が働いていたのかもしれません。教育の根幹を握ってしまえば、国民の色合いを揃えることができる――。
 
 しかし学校が「子どもの教育のすべてに関わって教育し、そのすべてにおいて責任を負いましょう」といった態度を取ったことは、必然的に親たちの依存心を引き出します。
 子どもの教育はすべてやりますって言うんだからやってもらおうじゃねえか、
ということ、それが現今の状況です。
(この稿続く)