カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「脚本は自動筆記、情報番組もいかようにも調理できる」~ドラマの中で浪費される人々の苦悩②

 時間を埋め物語の進展を図るために、テレビドラマは何でも素材にしてしまう。
 深刻な社会問題も個人の苦しみも、都合よく取り込み消費される。
 報道番組もスポーツ番組も、
 マスコミの一部にとっては商品以上の何ものでもない。

という話。

f:id:kite-cafe:20211215064737j:plain(写真:フォトAC)

【私たちは簡単に責任を放棄しない】

 昨日のお話ししたNHK朝ドラ「おかえりモネ」の劇中に出てきた「東日本の大震災の避難の際中、担任する児童を置き去りにして自宅の様子を見に行こうとしてしまった女性教師」は、モネの母親です。この事件を機に、母親は教師をやめます。そして誰にも気づかれないまま、大きな心の傷として10年近く胸に抱えてきたのです。

 同じ元教員として私は激しく気持ちを揺さぶられます。そんな教師は日本広しと言えど、どこにもいないと考えるからです。これは教師だからということではありません。あの日、現場にいながら職務を放棄してわれ先に避難した公務員、消防隊員、警察官、消防団、地区役員、医師、看護師、そのほか社会を支えるべき人たちがどれだけいたか、考えてみればいいのです。それどころか何の責任もない人までも、大勢で誰かを助けるために働いたのです。

 もちろん人間ですから恐怖に襲われて一瞬の回避行動はとったかもしれませんが、それとて一瞬のこと、10分も20分も現場を離れるということはあり得ません。あの大川小学校でも11人の教職員が津波に飲まれ、そのうち10人が亡くなっているのです。11人もいれば一人や二人は市の広報車の放送に怯えて逃げ出してもよさそうなものを、誰一人子どものそばを離れませんでした。
 もっとも教師と呼ばれる人は公立だけでも幼・小・中・高、合わせて100万人近くもいますから、中にはとんだ不心得もいるかもしれませんが、彼らは後悔したり反省したり、ましてや心に傷を残したりしませんからどうでもいいのです。

 ところがモネの母親は、10分以上に渡って誰にも告げずに現場を離れ、それを10年近く心の傷として抱え、しかし家族に告白することで放送時間にしてわずか一週間で克服してしまうのです。それが我慢できない。そもそも「教師と言えど、いざとなればそんなものだ」といった扱いが許せないのです。

 私は元教員ですから引っかかるのはその部分と、東京のシェアハウスに住むひきこもりの青年の扱いだけですが、被災地の人たちはあのドラマを見てどう感じたのでしょう?


【LGBTQも女性の働き方改革も単なる素材】

 普段はドラマなどあまり見ない私ですが、この秋は心惹かれる番組がいくつかあり、途中まで集中して見たものもたくさんありました。「ラジエーションハウスⅡ」「ドクターX」「この初恋はフィクションです」「婚姻届けに判を捺しただけですが」・・・ちょっと数えただけでも初回を見たドラマは10本以上です。妻がBGD(バックグランド・ドラマ)というとんでもない技を持っていて、周囲にさまざまな声がないと仕事に集中できないため常に何かのドラマが流れているせいもあります。

 十数本のほとんどは早い段階で飽きて自然にやめてしまったのですが、ひとつだけ、腹を立てて意図的に視聴をやめたものがあります。「SUPER RICH」という江口のり子主演のドラマです。私は江口のり子という女優が大好きで、ほとんどの場合「いや~な感じのする癖の強い女」しか演じない江口が善人を演じるというので、ずいぶん楽しみに見始めたのです。しかしとんだ期待外れでした。社会や個人にとって重要な問題の扱いが、あまりにも雑なのです。

 主人公の片腕である今吉という名の女性がLGBTQだと世間に知れた時、泣きじゃくる彼女を抱きしめて江口がささやく言葉は、
「今吉は悪うない。今吉は悪うない」
 LGBTQの問題を、いいとか悪いとか、善悪の問題として扱ったのは旧時代のことでしょう。今どきそんな話し方をしているだけで冒涜です。しかも今吉の苦悩はこの言葉によって救われ、その部分の彼女のドラマは終わりです。

 もう一人、鮫島という女性は独身のまま子どもを産もうとして会社を辞める決心をします。それを江口の社長が引き留めようとすると、鮫島は「この会社は女性が子育てしながら働けるようにできていないじゃないですか」と責めます。すると社長は、
「そやな、悪かった。ほなら鮫島、あんたが会社を変えな・・・」
 そう言ってこの問題も終了。何と軽いことか。

 

【マスコミのオートマティズムとシニシズム

 今年の1月から3月にテレビ朝日が放送したドラマ「書けないッ!?〜脚本家 吉丸圭佑の筋書きのない生活〜」は、売れない脚本家がチャンスをつかんでゴールデンタイムの脚本を書くことになったのだが、なかなか進まないという物語でした。主演俳優は次々と無茶な要求を突きつけ、翻弄された主人公はついに間に合わなくなって1話分をベテランに代わってもらうことになります。ところがその台本を読んだ主演俳優が、「これはどこかで見たような内容ばかり、意外なことが起こって“ああこれは夢落ちだな”と思ったらやはり夢落ち、作品に対する愛がひとかけらもない」と一蹴して、売れない主人公を励まします。

 こうした情熱や愛ではなく、磨き上げられた技術によって自動的に作品を創り上げてしまう自動筆記(オートマティズム*)はマスコミのいたるところに見えます。
*本来は神や霊によって、霊媒師が意志とかかわりなく自動的に記述すること

 週刊誌の記者たちはテーマと方向性さえ与えれば、本人の主義主張と全く異なる記事をいくらでも増産できます。その際、タイトルは思わず中を見てみたくなるような羊頭狗肉、内容も裁判に訴えられないギリギリのところでウソをつくことを厭わない、それが自然にできる。
 テレビの情報番組も手持ちの事実が足りなければ推測だけで果てしなく時間を潰し、暴言暴論のキャラクターを一人置いては自由に発言させて炎上商法ギリギリのところで視聴率を稼ごうとする。
 そしてドラマは、見てきたように社会問題や重要な個人の苦悩を、安易に持ち込んで個性の色付けや物語の多様性を計ろうとするのです。

 メディア全体には、こうした技術が積み上げた一種の冷笑主義シニシズム)が漂います。甲子園野球やオリンピックを熱く語りながら、その実、うまく番組を盛り上げた、視聴率が上がったと笑っているのです。
 私たちはイヤな時代を生きているものです。