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「どうした家康、らんまんの厚み、そして最高の教師」~最近のドラマに少し思う

 テレビドラマ、見ないときは徹底的に見ないのに見るときは見る。
 今シーズンはバラエティが減った分、ドラマが増えたようにも思うが、
 玉石混交、NHKの振れ幅も大きく、何か落ち着いて見ることができない。
 その中でテレビ朝日の「最高の教師」は、案外いいのかもしれない。
という話(ネタバレ少々あります)。(写真:フォトAC)

【どうした家康】

 どうでもいいと言えばどうでもいい話ですがNHK大河ドラマ「どうする家康」の登場人物がひどく薄っぺらでイライラしています。継続視聴をいつやめようかと迷っているのですが、私自身が徳川家康について知るところが少なく、例えば長篠の戦い三方ヶ原の合戦と武田氏の滅亡がどういう関係だったかよく分からなくなっていて、そうしたことを再確認して記憶に下ろし直すだけでもいいや、という感じでダラダラとみてきたのです。ところが最近はそれすらも苦しくなってきました。
 役者さんのせいではありません。松重豊さんや阿部寛さん、松嶋菜々子さんらベテラン勢はやはりいいし、特にこれまで凄いと思うこともなく来た若手の役者さんたち、有村架純さん、眞栄田郷敦さん、あるいは古川琴音さんなどは、やはり大河に選ばれるだけのことはあるわ、と思わせる凄さです。
 しかし一方、織田信長岡田准一さんや羽柴秀吉ムロツヨシさん、明智光秀の酒向芳さんなどはいずれも名優中の名優みたいな役者さんばかりなのに、どうもよくない。人間に深みがないのです。
 
 織田信長という人には非常にエキセントリックで衝動的、しかも非情で残酷な印象がつきまといます。しかし実際にはそうでもない一面もあり、最近「大河」でも扱った信長の実娘で家康の長男信康の妻でもある五徳が、義母で家康の正妻でもある築山殿を訴えた訴状に対する扱いもまったく正当なものでした。私は信長が秀吉の妻に送ったという手紙(*1)を見たことがありますが実に気配り細やかで、ああやはり天下を取りに行くような人は違うものだと思わせるものがありました。
 ところが岡田信長はそうはならない。一昨日の回では権力の頂上に立つ者の苦渋を語ったりしていましたが、どう考えても浅い。ムロツヨシの秀吉は傲慢かつ卑屈で、下心だらけのほんとうにいやらしい男で、品のなさが体臭のように匂ってきます。それはムロさんの演技のうまさがそう感じさせるのですが、実在の秀吉は(晩年はともかく)人たらしの好人物です。生粋の悪役・明智光秀も2020年の大河ドラマ麒麟がくる」を見た人たちからすれば、あんな単純な男では困ります。

 主人公の松本潤家康も、7月2日の回「はるかに遠い夢」までは半年間も臆病者の腰抜け城主だったのに、正妻築山殿と長男秀康が死んだ後の7月9日「ぶらり富士遊覧」ではすっかり呆けたようになり、信長からも「化けよったな」と言われ、家臣からは「殿!真意をお明し下さい」とか言われて本来の意味での豹変(*2)。「信長を殺す。殺して天下を取る」などと言い始めるのです。
 そんな、誰にでも分かる呆け者芝居で、信長殺しの計画など進められるはずがないと私は思うのです。
*1「あなたの容姿は、いつぞや拝見した折より、十のものが二十も勝っている。藤吉郎がくどくど不足を申し立てるなど言語道断だ。どこを探しても、あなたほどの妻を、二度とあの禿鼠が迎えるのは難しいだろう。あなたもこれからは朗らかな気持ちで、妻らしく重々しく振る舞って嫉妬を起こさないように、言いたいことも少々我慢するほうがよい」
*2「君子は豹変す(立派な人物は、豹の毛が季節によって抜け替わり、模様が美しくなるように、ある日突然、鮮やかに生まれ変わってくるものだ)」

【「らんまん」の人々の厚み】

「どうする家康」に比べて、同じ連続ドラマでも今回の朝ドラ「らんまん」は実に人物描写が豊かです。
 主人公と敵対するか思われた東京大学助教授徳永(田中哲司)や講師大窪(今野浩喜)はやがて良き後ろ盾となり、逆に支援者と思われた田辺教授(要潤)は主人公の研究成果を横取りしようとします。しかしそのそれぞれに事情があるのです。生きている人々はみんな、何かしらの問題を抱えているものであり、田辺教授もいつか、主人公の理解者として戻ってくるはずです。
 主人公と同じ長屋に住む彰義隊の生き残りの倉木も、次第に更生の道を歩み続けます。長屋の差配のりんさんは、主人公が二部屋の間借から三部屋へと増やした時も、「いいよ、いいよ、一部屋分はタダにしておくから」とは決して言いません。生きている生活者というのはそういうものでしょう。それが人間の厚みです。

 思うに脚本家をはじめとする制作スタッフには人間に対する本質的な尊敬があります。主人公は土佐高知の酒蔵の出身です。酒造は冬の仕事で、職人は農閑期に近隣の農家から出稼ぎでやってきます。その酒造りの最後の日、蔵元は職人を酒宴でもてなして、無事仕事が終わった喜びと感謝と伝えます。これを「甑(こしき)倒し」というのだそうです。
 ドラマの中では、蔵元の人々が深々と頭を下げ、職人を大切にしている様子が窺えました。そうした職人尊重のふうは、東京に出た主人公が印刷屋に見習いに行く場面でも見られました。印刷屋のおきゃんな娘が、インクに汚れた印刷工を「キャー汚い」とか言って避けると、父親でもある親方が娘を罵倒します。
「バカヤロー! てめぇ、いったい誰のおかげでオマンマ食べられていると思ってるんでぇ!」
 そこには雇い主と職人というのとは違う関係があります。いまの私たちも見習いたいものです。

【「最高の教師」の覚悟】

 さて、先週土曜日(15日)から、日本テレビ「最高の教師~1年後、私は生徒に■された」が始まりました(🔳部分は乱雑にかき消された文字1字)。

 私は学校を舞台としたテレビドラマは嫌いです。悪い教師が出てきても良い教師が出てきてもロクなことがないからです。「ごくせん」や「今日から俺は!」くらいに荒唐無稽だといいのですが、中途半端に現実的だと迷惑します。その端的な例が3年B組の金八先生です。
 ドラマでは生徒たちが圧倒的に優秀で、理屈が分かれば反省ができる、そして反省を生かせる子どもたちばかりなのです。だから金八の説教が効くという構造になっているのですが、現実の私たちはそうはなりません。
 私も妻の前では反省が早い。しかし忘れるのも早く、反省を生かすことができません。「♪分かっちゃいるけどやめられない♪」、そういうタイプの人間ですから、金八に説教されても変わりようがないのです。しかしそれって、普通じゃありません?
 そんな事情で学校を舞台にしたドラマはできるだけ見ないようにしてきたのですが、「最高の教師~」は少し見てみようという気になっています。

 主人公の高校教師・九条里奈(松岡茉優)は卒業式の午後、担任したクラスの何者かによって校舎から突き落とされます。その瞬間に一年前の始業式の日に戻ってしまい、問題山積のクラスの学級担任をやり直すことになるのです。

 1回目は問題から逃げ、ただ生徒の自由の邪魔をしないようにしてきた九条ですが、2度目は徹底的に生徒に寄り添い、生徒とともに学校を変えていこうとします。ところが生徒の方は教師を利用することしか考えていません。そこで主人公は初めて、変わるべきは自分であること、寄り添うだけではダメで、世界を変えようと思うなら、たとえ生徒に刺されても最後の力で絶対に刺し返してやるという、それくらいの覚悟が必要だと気づくのです。
 
 その後、教室内にはびこるいじめに対して、教師は盗聴と盗撮によって証拠を残そうとします。その上で《もしこれ以上のいじめが続くようなら、社会に対してその動画と音声をアップする》と脅します。脅して犯罪者となることも辞さない、そのくらいの覚悟がある、と示して見せたのです。
 
 かつての私にも、そのくらいの覚悟はありました。またドラマの冒頭のモノローグ、
「生徒のために命をかけて死力を尽くす教師、そんな理想を掲げる教育者が、いま何人残っているだろう」
に対しては、
「ああ、いくらでもいる」
と自信をもって答えられます(*3)。
 だから働き方改革が進まないという問題は別にしますが――。
 ドラマの行方を楽しみに見て行きましょう。


*3 少なくとも小学校教諭の14・2%、中学校教諭の36・6%は国が示す「過労死ライン」(残業月80時間)を越えて「命を懸けた」状態ですから。