カイト・カフェ

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「小柳ルミ子のダモクレスの剣」~それぞれのコロナ①

 新型コロナ自粛の中で、歌手・小柳ルミ子はいったん引退を決意したという。
 その期間中、誰も小柳ルミ子を思い出さず、誰も仕事をくれなかったらからである。
 しかし芸能人の大半は同じ状況にいたはずではないか。
 小柳ルミ子はなぜそんなふうに思いつめて行ったのか。

という話。

f:id:kite-cafe:20200930010649j:plain(フェリックス・オーヴレイ「ダモクレスの剣」)

【大スター、涙ながらに語る】

 我が家は夫婦の趣味がことごとく合わず、したがって一緒にテレビを見るということがありません。私が見ているときは妻が別の仕事をし、妻が見るときはたいて私はコンピュータに向かって別の仕事をしています。音声がうるさいのでほとんどの場合はヘッドフォンで音楽を聴きながらの仕事です。

 一昨日の夜は妻が「徹子の部屋」のVTRをつけていて、「ああ小柳ルミ子が出ているな」と思いながら特に興味も沸かないでいつもの通りにしていたところ、曲の切れ目に聞き捨てならない言葉が聞こえてきて、おもわずヘッドフォンをはずして振り返りました。
 こんなことを言っていたのです。
「徹子さんにはわかってもらえるかもしれませんけど、私たち芸能人と言うのは人気商売で、必要とされてお仕事いただけるわけです。で仕事がないって言うことは・・・もちろんコロナのことは分かっています。でも、コロナであっても必要だったら、オファーがいただけると、思うじゃないですか。
 それがもうないということは、ああもう自分に力がないんだな、もう皆さんに楽しんでいただける歌も踊りも芝居も、必要とされてないんだなって思って、もう本当に7月は引退しようと決心して、そしたら――」
 この話の続きは、自分のブログのコメント欄に“サザン・オールスターズの桑田佳祐さんが雑誌で小柳ルミ子さんのことを絶賛していましたよ”という書き込みがあって、さっそく取り寄せて見ると「最高のエリート歌手」だとか「歌がうまい」とかあって、それで再び歌手の道を歩もうと思ったというところに繋がっていきます。

 それもまったくの涙ながらで、何回も声を詰まらせ、何枚ものティッシュ・ペーパーを無駄にしながらの話です。私の心には、幾重もの違和感が降り下りてきます。

【私には理解できない】

 ひとつには「それはそこまで深刻な問題なのか?」ということです。
 この4月・5月・6月を、それこそ身を削り命を懸けて過ごした何百万人もの人たちがこの国にはいるはずです。
 今日の糧が手に入らない、明日の目星がつかない、月末までの資金が用意できなければ社員が路頭に迷う、店を手放さなくてはならない、自宅を失うかもしれない――そんな思いで過ごしてきた人たちです。
 しかし小柳ルミ子さんが失うかもしれないと恐れているものはオファーなのです。

 まさか生きていくだけの蓄えがないということもないでしょう。事務所からの固定給だってあれば、CDや音楽配信の印税だってあるはずです。ファンクラブからの収益だってまだまだ見込めます。いざとなれば借金をしたってコロナ明けにディナーショーを何回か開けば簡単に返せる人です。
 前夫から受け取った1億円の慰謝料はどうなったのでしょう? 小柳ルミ子の前夫という以外に何の取りえもないダンサーが、わずか数年で1億円を返せるのが芸能界です。小柳ルミ子だったら何とでもなるでしょう。

 そもそも仕事が来ないのは芸能界が彼女を必要としなくなったからではありません。もちろん最前線の流行歌手としての需要ならとっくに失っていますが、その代わり今は中堅の、安定した歌唱のできる歌手として地方公演やディナーショーなどでは引っ張りだこのはずです。それがライバルというなら同じような人はいくらでもいますが、このコロナ禍のもとで、ほとんど全員が休んでいたはずです。ジャニーズやAKBのような最前線の人気タレントですら仕事がないのに、中堅歌手の出番などどこにもありません。

 芸能なんて主要不急の職業であって、自粛期間中は「だるまさんが転んだ」で鬼に振り向かれたときと同じように、ほぼ全員が一斉に止まっていたのです。コロナが明けたら、鬼が再び「だるまさんが・・・」と言い出すのに合わせて、みんなで一斉に動き出せばいいだけのこと、それまでのあいだに歩みを進めている仲間などいるはずがありません。
 それを、
 もう自分に力がないんだな、もう皆さんに楽しんでいただける歌も踊りも芝居も、必要とされてないんだな
だなんて、ほんとうにコロナに苦しんでいる人たちが聞けば、怒り出しそうです、と悪態をついておいて――しかし「それが人間なのだ」という思いも、私にはあるのです。 

小柳ルミ子ダモクレスの剣

徹子の部屋」の録画を最初から見直すと、自粛期間中、小柳ルミ子さんは毎日19にも及ぶコロナ関連の番組を見続け、自らを「除菌オバさん」と呼ぶほどに防疫の腕を上げたそうです。おそらく独り暮らしで、朝から晩まで独りぼっちで新型コロナの情報にたっぷり汚染されていたのでしょう。

 18歳でデビューしていきなりスターダムにのし上がり、以後ずっとその地位を維持してきました。家庭を持たず、芸能以外の仕事に手を出すこともなく、常に健康と体力に気を遣って体形や運動能力の維持のために最大の努力をしてきた。二六時中誰かに見られ、いつも気を張って緩めることもない――そういった 人間が、数カ月に渡って部屋に居ずっぱりで、朝から晩までひとりでコロナと戦っている――。
 その目に映る社会や世界の姿が、歪んでくるのも致し方ないのかもしれません。

 思えばスターダムというのはシラクサの王・ディオニュシオス一世の玉座と同じです。逸話によると、廷臣ダモクレスが王を讃えて羨むと、王は黙ってダモクレス玉座に座らせ、上を見るように指示します。するとそこには天井から毛髪一本で吊るされた抜身の剣が下がっていたのです。
ダモクレスの剣――玉座のいかに危ういかを示す逸話です。

 芸能人というのは因果な商売です。評価の基準は「人気」という徹底的に他力本願のところにしかありません。努力や実力が単純に反映しにくいのです。そしてそれにもかかわらず、定年のない世界ですから果てしない競争にさらされ続けます。
 一方でルミ子さんよりも20歳も年上の黒柳徹子さんが最前線で活躍しながら、80歳の老優・藤木孝さんが「役者として続けていく自信がない」と遺書に書いて自殺する世界です。死ぬまで生存競争から自由になれない。
徹子の部屋」からオファーが来て「やったー!」と両の拳を振り上げたという小柳ルミ子さん狂いは、芸能界全体のものなのかもしれません。

 それは三浦春馬さんや芦名星さんの生きた世界でもあります。