「教育用語の基礎知識」�@

 おそらくどんな職業にも業界用語というのがあります。例えば以前、学校に泥棒が入ったときに警察の方が「ゲソ、取っておけ」と言うのを聞いて、ほんとうに足跡のことを「ゲソ」というのだとびっくりしたことがあります。

 教員になったときも「チュータイレン」という言葉を聞いて「中学校体育連盟」のことかと思ったら「高校を中退した連中(だから中学生になにかを仕掛けてきかねない)」という意味だったり、「社研」と言えば私たち以上の世代では大学の「社会研究会」、すなわち学生運動(念のため、学生スポーツではなく政治運動です)の中心地みたいなものでしたが、学校では単なる社会科の先生たちの集まり「社会科研究会」でした。

 しかしもっと困るのは、無意識に前提としたものがあるのにその部分を捨象して出ていく特別な概念です。

 例えば教育について言えば、「良い子が危ない」。だからと言って「悪い子が安心」というわけではありません。「悪い子」についてはしっかりと心配してもらわなくてはなりません。それに「本物の良い子」も実は危なくない。勉強ができてスポーツも堪能、人柄も良くてクラスの人気者――そんなめったにいないような良い子の心配までしていたら学校はやっていられません。

 危ないのは他者(特に親)や自分自身から「良い子」を強いられ、精一杯背伸びをしているような、精神の足腰の弱い「良い子」です。そしてそういう子は、案外、発見しやすいものです。それにも関わらず、立派なお子さんの保護者たちが異様に心配し、心配なはずのお子さんの親たちがのうのうとしているとしたら、「良い子が危ない」は非常に危険な概念ということになります。

 教育はすべての国民に関心のある重大事で誰もが素人だと思っていませんから、一度ゆがんだ方向に進むと取り戻すのが容易ではありません。曖昧な言葉も曖昧なまま何となく行ってしまいます。

 例えば「ゆとり教育」。日本中の子どもたちが「ゆとり」とか言って全員が勉強もせずにグターッとしていたら(ゆとり教育がそういうものだと、私は思いませんが)、それは確かに大変ことです。しかしどうでしょう?

 昔、こんな話がありました。

「ある商社員が靴を売ろうとアフリカの某国に向かった。そこで彼は絶望し、本社に電報を送る。

『残念ながら商機はない。当地では誰も靴を履かない』

ところが別の社員は空港に着くなり欣喜雀躍して電報を打ちます。

『やった! 独占できるぞ!! 当地ではまだ誰も靴を買っていない!!』」

 同じです。

 日本中の子どもたちが「ゆとり」とか言って全員が勉強もせずにグターッとしていたら、その時こそ「ウチの子」がのし上がるチャンスなのです。成績を飛躍的に伸ばすには自分が頑張ると同時に、周囲が怠けれくれることが必須です。そんな絶好のチャンスをみすみす捨てて、「ゆとり教育反対」とか言っていた日本のお父さんお母さん、あなたたちは天下国家のために自分の子どものチャンスの芽を摘んでしまったようなものです。ほんとうに残念なことをしました。

 しかしこんなのは序の口であって、意味のない、あるいは意味不明の教育用語によって苦しんだり絶望したりした人も少なくなかったはずです。