「ゆとり教育と学校のスリム化」~学社連携について②

 アメリカから強く要求されてきた企業の週休二日制促進のため、当時の自民党は今で言う「政治主導」によって強引に学校五日制を始めてしまいました。しかし制度として定着させるためには正当化が図られなければなりません。そこで持ち出されたのが「ゆとり教育」と「学校のスリム化」です。

「ゆとりある教育」という概念はすでに70年代からありましたし、政府も80年代から授業時数の削減といった形で進めてきたものです。ただし時数は減っても内容はさほど減りませんでしたから、現場はむしろ苦しい状況が続いていました。ところが2002年の学習指導要領改定はまったく違っていました。

 何しろ完全学校五日制に対応し、なおかつ「21世紀を切り開く新しい教育」を標榜するものでしたから大がかりにならざるを得なかったのです。「時数で1割、内容で3割の削減」、そこに「総合的な学習の時間」という鵺(ヌエ)のようなものが新設されましたから、私たちはわけが分からず、大いにうろたえたものです。

 しかしマス・メディアを中心に、世間は一貫してこの方向を指示しました。

「これからの国際社会は詰め込み教育ではもたない、ゆったりと学ぶ中で考える力をつけることが大切だ」といった主張は、国際社会を知らない「普通の人々」には脅迫的なものでしたし、総合的な学習の時間の中で「生きる力(問題解決能力・豊かな人間性・たくましく生きるための健康や体力)」をつけるという謳い文句は、不登校や非行といった問題に喘ぐ学校を、根底から救うものだと誤解されたからです。

 また「学校のスリム化」の理念―学校は肥大しすぎた。これからは学校と家庭と地域が分担して役割を負い、それぞれが得意分野で子どもを育てるべきだ―も、公教育にウンザリしていた人々に拍手をもって迎えられたのです。

 いずれも教育とはまったく関係ないところで決まった「学校五日制」を正当化するものでしたが、社会は何か素晴らしいことがこれから起こると思い込みました(この思い込みは反ゆとり教育論者である安倍元首相のような人にもあったらしく、のちのち「ゆとり教育は、理念は正しかったが先生たちが理解できなかった」とも言っています)。

 ただしこの「ゆとり教育」と「学校のスリム化」の始まりに当たって、学校は徹底的に非難されました。

 ゆとり教育推進論者はマス・メディアを通してこのように言いました。
「教師たちは自分の成績を上げるために子どもたちの知識を詰め込み、“より良い学校”に入れようとしてきた」
「一人ひとり教科書をもって音読するといった明治以来の古い国語教育が、子どもたちの可能性を潰してきた」
「コンピュータ時代にあって、計算できることや漢字を書けることはどういう意味があるのか。ITに乗り遅れた教師たちはそんなことも分からない」等々。

 また、学校のスリム化論者たちはこう言いました。
不登校も非行も解決できないのに、学校は家庭教育にまで口を出し、子どもを支配しようとしてきた」
「学校の成績がそのまま子どもの評価になってしまった。“学校でいい子”は“地域や家庭でもいい子”扱いされている」

 のちに百マス計算がもてはやされ、『声に出して読みたい日本語』がベストセラーとなり、「学校の先生が楽をするための『ゆとり教育』か」「教師が手を抜くための『学校のスリム化』か」と非難されること時代が来ることを考えると、隔世の感があります。

 いまでは「ゆとり教育」を親の仇のように言う人もいますし、「学校のスリム化」は死語のようです。しかしこの二つを経験して初めて明らかになったことがいくつもありました。

 

(続きます)