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「教育用語の基礎知識」②~子どもを信じる

 教育に関するアドバイスや提言にはかなり情緒的なものがあって、聞いた時には一瞬わかったような気になっても良く考えるとわからない、あるいは具体的にどうすればよいのかわからないような話がたくさんあります。

 たとえば「子どもを信じろ」。
 世の中には子どもを信じたばかりにバカを見た親はいくらでもいます。というか大抵の親はそうです。ウチの子は天才だと思ったらバカだった、家に帰ったらすぐに宿題をやるといったのにまるっきりやらない、ゲームを買ってくれたらテストで頑張ると言っていたのにそのゲームばかりやっている・・・。
 万引きか何かで警察に捕まって、「どうしてこれだけのことをしていたのに親御さんは気付かなかったのですか」と問われたら静かに黙っているしかありません。そんな場で「子どもを信じていましたから」と言ったりしたらバカにされます。

 子どもを信じじてはいけないという示唆が、子ども自身からもたらされる場合もあります。ためしにやってみればいいのです。
「お父さんはお前を信じる。お前はこれから毎日10時間15時間といった猛勉強に耐えて必ず東大に入ってくれる。お父さんはお前の事を絶対に信じっているからね!」

 要するに「子どもを信じろ」というアドバイスないしは指示の背景には、何かしらの条件とか制約とか、場面とかがあるのです。むやみに信じてもいけませんし、全部を疑ってもいけない、しかし信じていい何か、です。
 子どもの非行問題や不登校に悩んでいるときに「子どもを信じて待ちましょう。必ず良くなります」と言われたとしても、ただ漫然と何もせず、子どもの言いなりになって待っていてはいけないのです(もちろん「何もしない」ことが有効な場面もないわけではありませんが、その場合は期限を区切ったり、どういう条件がそろったら「何もしない」ことを止めるのか、決めておく必要があります)。

 一方、「待つ」のではなく、何かしら行動が求められる場合もあります。
「きちんと子どもと向かい合いましょう」「もっと子どもに寄り添って・・・」「子どもの目線で考えてみてください」「一歩踏み出しましょう」
 しかしどれもこれも具体的に何をすればよいのかわかりません。
 崖っぷちの人間が「一歩踏み出」したら危険です。親子関係が険悪になっている最中に不用意に「向かい合」ったらこれも危険でしょう。「寄り添って」何をしたらいいのか。
 言われた方はさっぱりわかりません。言っている方だってわかっていないのかもしれません。

 ただし、もちろんこれらの助言・指示がまかり通っているのは何らかの意味があるわけで、何かの成功例があるからなのでしょう。言われた側が何らかの適切な態度や行動を取ったからうまく行ったとか、言った内容が直截効果を発揮するのではなく、言われた通りにすることで別の要素が生まれ、その要素に力がある、といったケースです。
 ですから、すこし考えてみたいと思います。