カイト・カフェ

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「こうであってほしい、こうであるべき、こうである」~権威や権力がなくなることへの期待と不安⑧

 いわゆる「新学力観」のもとで、普通の子が捨てられる体制が整った。
 しかも世間の人々は現実の子どもを見ず、
 「こうあってほしい」と「こうであるべき」と「こうである」が混同される。
 という話。(写真:フォトAC)

【学校は子どもの学力保障をいたしません】――新学力観の話

 新学力観という言葉を覚えている人も少なくなったのかもしれませんが、これは1987年の教育課程審議会答申で提起され、1989年改訂の学習指導要領に生かされた学力に関する新しい価値観のことを言います。
 ひとことで言うとこれまでの共通学力や定型的な知識を重視する学力観から、変化に対応できる能力、生きる力、自ら考える力、問題解決能力、個性的能力を重視する考え方へと学力の定義を移したのです。学習の形態は座学中心から体験的な学習や問題解決学習中心へと変化し、評価の観点も知識・理解から興味・関心・意欲・態度へと重点が移りました。教師の役割は指導から支援へと大きく転換させられます。

「社会の急速な変化は既習内容をすぐに古いものにしてしまう。したがって変化に対応する諸能力をつけることこそ大切だ」
と、その理屈は分からないではありませんが、現場の教師たちがまず戸惑ったのは、
「そんなすごい能力、すべての子どもの身に着くものなの?」
ということです。私たちが指導していた児童生徒の半分以上は、「変化に対応」どころか、固定された古い知識さえ身について行かない子たちだったからです。

 体験的な学習や問題解決学習はたいへんな時間くい虫でしたから、その時間を確保するために基礎基本に関する学習の時間は大きく削られることになりました。2002年の学習指導要領から置かれた「総合的な学習の時間」はその典型で、この問題解決学習の牙城が、俗に「ゆとり教育」と呼ばれる教科の内容・時数削減の中で創設されたことを考えると、いかに意図的に基礎基本が軽視されたかがわかろうというものです。
 
 優秀な子はどんな状況でも学ぶことを忘れません。総合的な学習の時間の中で、
「できる子は学力を伸ばし、そうでない子は楽しく遊んで終わる」
と言われる状況は、こうして生まれました。

ゆとり教育は一面で正しかった】

 新学力観に完全に準拠した「ゆとり教育」はすぐに見直され、削減内容の多くが戻ってきました。しかし教科の時数が元に戻ったわけではなく、総合的な学習の時間も三分の二に削減されたもののデンと学校教育の中心に据えられたままでした。
 
 私は体験重視、問題解決重視の教育が間違っているとは思いません。それは「ゆとり世代」と呼ばれる人々の活躍の様子を見ると分かります。
 年長の方から言えば、田中将大前田健太福島千里香川真司内村航平入江陵介福原愛石川遼松山英樹石川佳純浅田真央大迫勇也。芸能界ではAKBグループ、ももいろクローバーZ、きゃりーぱみゅぱみゅPerfume佐々木希堀北真希長澤まさみ岡田将生。学術・芸術面では今のところ五嶋龍辻井伸行といった音楽家、史上最年少で直木賞を受賞した朝井リョウ、あるいは将棋の藤井聡太くらいしか思い浮かびませんが、学術や芸術面で大成するにはまだまだ時間がかかるということなのでしょう。

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 「ゆとり教育」だからこそ出てきた才能なのか、そうでなくても世に現れてきたのか、その辺りは議論になるかと思いますが、世間が心配するほど「ゆとり教育」がダメだったわけでないことは事実でしょう。
 しかしこうした有名人以外の子たちにとってはどうだったのか――。

【こうであってほしい、こうであるべき、こうである】

 私の知っている「普通の子」たちはけっこうな「ダメ人間」です。
 長時間いすに座っているなんてまったく苦手で、集中力も続きません。計画を立てても三日で投げ出し、「分かっちゃいるけどやめられない」とばかりにすぐに遊びに行ってしまいます。
 面倒なことは苦手、責任のあることからは逃げたい、できれば一生楽をして遊んで暮らすのが夢。他人からは助けてもらいたいけど、誰かを助けるなんてできそうにない。妙に絡まれるくらいなら助けてもらわなくてもいい。金持ちでなくてもいいから、遊んで暮らしたい・・・等々、ムシのよい夢は延々と続きます。
 だから子どもは可愛く、面倒見がいがあって、いつまでもつきあう価値もあるのです。

 しかし日ごろ子どもと接することの少ないマスコミや一般社会の人々の知っている「普通の子」は、私たちのとはだいぶ違います。
 彼らはかつての「3年B組金八先生」のクラスの子のように、多少気難しくても言語による交流のできる子たちです。呼び出せば来るし、こちらから行けば話し相手くらいにはなってくれます。聞く耳を持たないとか「うるせぇ、帰れ! ジジイ!」だけでまったく会話にならないといったことはありません。(私の教え子には会話にならない子がいっぱいいました)
 おまけに話の内容に納得すれば素直に受け入れることができ、(ここからが本当にすごいのですが)反省すればすぐにも行動に移せる優秀な子たちなのです。そこには「しがらみで身動きがとれない」とか「素直になれない」とか「いまさら、そんなことできっかよぉ」とかいった面倒くさく人間らしい心の動きは微塵もありません。「わかればできる」のです。
 金八先生の武器は「言葉」だけですが、それで戦えるのも、相手も「言葉」で戦ってくれるからで、何を言っても殴りかかってくるような子ではまさに字義通り「話にならない」のです。

 マスコミや世間の人たちが思い浮かべる子どもたちは、ぎりぎりのところで踏みとどまれる。だからせめて児童生徒と呼ばれるあいだくらいは、自由にのびのびと生きていてほしい。大いなる自由の中で大いに学び、社会人として通用する学力や人間性を身に着けるべきだ。子どもは自由にすることによって本来持っている力を解放し、十全な成長を遂げる――。
 こうして「こうであってほしい」と「こうであるべき」と「こうである」は混同され、現実の子どもは捨てられてしまうのです。

(この稿、ようやく終わったことにします)