カイト・カフェ

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「教えられないことはできない」〜公教育の行方③

 ワイドショウを見ていたら「ドライブレコーダーがとらえたロシアの優しい人々」といった映像が出ていました。交通量の多い道路の真ん中で車を停め、道を渡れないで困っているお年寄りを助けたり迷い出たネコを横に寄せたりといった映像を重ねたものです。
 番組はそれに続けて、日本発の世界を感動させた映像として道を渡ったあと、止まってくれたドライバーにお礼のあいさつをする小学生の様子が映し出されていました(ドラドラ 「どういたしまして♪」−朝から清々しい気分になります)。リンク先の映像はひとつだけですがテレビでは同様の動画をいくつか拾っています。
 さらに取材班はこの動画が撮られた埼玉県にまで行き、直接小学生に話を聞いたり校長先生にインタビューしたりします。小学生によると停まってくれた車に挨拶するのは誰に教えられたというのではなく、登校班の班長である6年生を見て覚えたというのです。校長先生も「私が赴任してきたときにはもうやっていましたから伝統なのでしょう」とコメントされていました。しかし私は少し首を傾げます。そんなこと、埼玉県の特定の小学校を取材するまでもなく、日本中いたるところで行われているのではないでしょうか。若い頃、東京でドライバーのアルバイトをしていたことがありますが、そのころの都内だって何回か出会った光景です。
 現在私が住んでいる街でもありふれたもので、しかしそれは自然の伝統といったものではなく、まちがいなく学校が教えたのです。春の交通安全教室とか一年生の登校練習とかいった際に、先生たちが必ずそのように教えています。だからできるのです。

 先の埼玉の校長先生にしても、もしかしたら先生が知らないだけで、実際には登校班の班長指導の際に担当の先生が行っているのかもしれません。登校班を横断させる際、全員をしっかり停止させ、左右を見て車の来ないことを確認してから旗を差し出す。笛を吹いて下級生を横断させ、最後に自分が道路から離れる――そう指導していくと「最期にドライバーさんたちにお礼のあいさつをする」という指導は自然に入ってくるものです。
 校長先生はそうした細かな指導までは見に行きませんから、それで知らないのかもしれません。あるいは今はやっていないだけで、以前、誰かが指導し、それが延々と続いているのかもしれません。いずれにしろ自然発生的に行えるようなことではないのです。

 しつこく書きますが、かつて日本の悪口を言うことが知識人の仕事と思われた時代があります。彼らの口癖は「だから日本は(日本人は)ダメなのだ」「そんなことをやっているのは日本(日本人)だけだ」「そんなやり方は日本国内でしか通用しない」「だから世界に笑われる」・・・。
 しかし2011年から一切の風向きが変わります。東日本大震災の際に日本人が示した道徳性に対する高い評価が、世界から跳ね返って日本に戻ってきたからです。以来、テレビ番組はチャンネルをひねれば「日本はこんなに優れている」「世界が憧れる日本」といった番組ばかりです。書店の横積みの本も同様の日本礼賛(か、嫌韓嫌中――日本を誉めるのはいいが韓国・中国まで巻き込むのはいかがなものかと思うのですが、現実はそのようになっています)ばかり。

 教師になって以来私は終始一貫して民族主義者であり日本を低く見積もる観点に強く抵抗してきました。サイトで15年に渡ってメスメディア批判をしてきた観点のひとつもそういうものです。そうした私にとって、日本礼賛は当然好ましいものですが同時に賛辞一方でさっぱり深まって行かない、分析的になっていかないことに多少苛立っています。
 日本人がかくまで道徳的であろうとする原因として、DNAを上げているようでは困るのです。日本人の血筋なら世界のどこで生まれようとどこ背育とうと必ず道徳的になる(DNA説だとそうなるはずですが)などありえないことです。

 この点については外国(とくに中国)発の論調の方がはるかに科学的です。彼らはその原因の中心に日本の学校教育を上げてくるのです。とくにその特別活動に注目します。

                             (この稿、続く)