「通知票の作成が楽しいと思えた時代」~当時も忙しかったが、今よりは余裕があった 

 3連休が終わって夏休みまであと数日。
 だったら連休からそのまま夏休みにしてしまえばよかったのに、
 そう考える人も少なくない。
 しかしこの連休を使ってようやく通知票を仕上げた教師も少なくないのだ。

という話。

(写真:フォトAC)

【海の日の価値】 

 すでに先週の土曜日から夏休みという学校もあろうかと思いますが、私たちの地域では明日が終業式。3連休明けに二日の登校日があるわけで、児童生徒や一部の教師からは、
「なぜここに二日入れたんだ、二日休みにするだけで夏休みが五日も伸びた計算になるじゃないか」
との不満の声が上がり、別な教師からは、
「冗談じゃない、連休明けに終業式があるから通知票が仕上げられるのだ。俺にとって『海の日』は通知票の『産みの日』なんだ。休みにしてたまるか」
の声も上がってきます。

 保護者はおそらく、
「もっと一学期、長くてもいいわよねぇ」
と、
「こんな暑い中を子どもに登校させて、学校は何を考えているのかしら」
の二つの声に分かれるでしょう。
(最後の二つの声が女言葉であることについては、私個人と、日本国全体のそれぞれ問題があろうかと思いますが)

 どんなことにも賛否はつきものです。


【所見欄が多すぎる】

「通知票は公簿ではないのでなくしてしまえ」という考え方があります。
 文章で書かなくてはならない欄が、今は「特別の教科道徳」「総合的な学習の時間」「(小学校の)外国語」「総合」と昭和時代の4倍もあり、担任教師にとって大きな負担になっていいるのです。それを考えると「なくしてしまえ」と言いたくなる気持ちも分かります。しかし家庭訪問が簡略化されたりなくなってしまった昨今、年一回の懇談会で学校の様子を知らされても保護者も困惑するばかりでしょう。
 せめて一学期に一回くらいは知らせてほしい、そう思うのは無理のないところで、学校にしてもそのくらいの頻度で知らせておかないと、いざというときに「こんな状況になっているとは夢にも思わなかった」だの「なぜもっと早く知らせてくれなかったのか」など逆恨みを買いかねません。

 所見欄が4か所というのは常軌を逸していますし、懇談会のある学期は口頭で知らせればいいので書く必要もありません。校長先生とよく相談して、できるだけ簡便な形に変更する必要はあります。
 ただし通知票が校長裁量の範囲であることは法的に正しいとしても、現実問題としてはなかなかうまくいきません。


【通知票は学校ごと自由に変えるわけにはいかない】

 学校は横並びが大好きです。
 隣りの学校が運動会をコロナ前に戻すといったらこちらもやらないわけにはいかないし、音楽会を近くの音楽ホールでやることにしたと聞けば、できるだけそれに近い会場でやりたいと探し始めるのは普通です。

 なぜなら日本の公教育は、北は北海道の稚内市立大岬小学校から南は沖縄県波照間島波照間小学校まで、基本的には同じ学習内容を、同じように教育することが求められているからです。それが異なっていてA小学校に行く子は英語・算数の成績が良くなって、B小学校の子は総合的な学習の時間に強い、ということでは平等原則に著しく反します。そのつど学校を選んで転居しなくてはなりません。

 通知票ひとつを取っても、「隣りのC小学校では毎学期出してくれるのに、ウチの学校はない」とか「ウチの学校の通知票は所見欄がなくなってしまった」ということになれば、抗議の声が鳴りやまなくなります。声が上がればまだいい方で、不満が沈潜して燃え残ると、どうでもいいような別の問題で火がついたりします。
 ですから全部を揃える必要はないものの、ある程度の大枠は自治体単位でそろえる必要があります。

 通知票の廃止などといった大胆なことをする校長先生もいないことはないですが、その人は通知票と心中してもいいほどの気持ちでがんばっているわけで、代がかわるとあっという間に元に戻ってしまうのはそのためです。


【通知票の作成が楽しいと思えた時代】

 私が学級担任をしていたころ、記述式は総合所見しかなく、それも1・3学期しか書かなかったので今よりはだいぶ楽でした。もちろん40人を越える生徒全員について数行ずつ書くわけで、楽と言っても数日をかけてようやく終わる大仕事です。
 それでも、2学期の懇談会資料作りを合わせて年3回、ひとりひとりの顔を思い浮かべながら書く総合所見は、けっこう楽しい時間でもありました。
 それだけ時間的にも余裕があったということです。学校の仕事も、普通の人間の常識的な努力で達成できるものでなくてはなりません。