「道徳教育の行方」〜公教育の行方④

 交通安全教室や小学校1年生の登校指導で、子どもたちは自分たちのために停車してくれた運転手に頭を下げることを教えられます。この活動は一義的には交通安全のためのものですが道徳的な意味が付随します。

 始業式や終業式できちんと話を聞かないと叱られるのは、そうしないと儀式がめちゃくちゃになるという現実的な理由もありますが、二義的には「人の話は黙って聞くものです(人の話に心を傾けるのは人権意識の最初の一歩です)」と教えられなければならないからです。
 そんな教育をしたところで成人式を見ればいい、話なんか聞いていないじゃないかという人がいますがあれは意味が違います。二十歳で早くも社会の底辺に追いやられそうになっている子が「それでも俺たちは凹んでないぞ」と虚勢を張る場だからです。そして一部の自律的でない子が巻き込まれているのです。大半の子はきちんとしています。
 成人式で暴れる子たちも入社式で同じような騒ぎは起こしません。不幸にしてヤクザになってしまう子も、組の会合で暴れたりしないでしょう。そんなことは当たり前と言ってはいけません。たとえばアメリカ人なんてホールに並んで立つことすらできません。それができるのは軍隊の中だけです。

 児童会・生徒会、給食当番、清掃の時間、それらすべてには機能的な意味がありますが道徳的目標が必ず付随します。道徳というのは極めて言えば「人間関係の学び(いかにうまく機能させ互いに気持ちよく過ごすか)」ということですから集団活動をさせれば必ず指導の機会が生まれてきます。その中で、子どもたちは考え、判断し、指導され、正しく美しい生き方を身に着けて行きます。
「学校における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間をはじめとして各教科,特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない」(小学校学習指導要領 第1章 総則 第1 教育課程編成の一般方針)
はそういう意味であって、日本の場合それが非常にうまくいっていたのです。

 中でも特別活動(学級活動や児童会・生徒会活動、儀式や旅行などの学校行事)は道徳実践の訓練の場なのです。ですから特別活動を縮減して「道徳の時間」(週一時間、コマを振り分けて行う授業)を充実させるというのは、運転免許教習で技能教習を減らして学科教習を増やすようなものです。野球部がグランド練習を減らして「野球技術上達法」の勉強会を繰り返せば甲子園に行けるというものではありません。

 こうしてみていくと日本の学校は朝から晩まで道徳教育をやっているように見えます。実際のその通りなのです。そして実際に教員の多忙さはこれに由来しているとも言えます。
 考えてみてください。学校から学校行事や当番活動、児童生徒会、給食や清掃活動、部活動がなくなったら、教員はどれくらい楽になってしまうか。
 しかしそんな提案をしたらまず教員から批判の火の手が上がります。なぜならそこが一番やりがいのある場面であり、日本人を日本人に育てる仕事は学校以外は行えないからです。少なくとも組織的・計画的に行っているのは学校だけです。

「先生の仕事は、本来は勉強を教えることだ」という人は日本の教育をまるで分っていない人です。日本人の道徳性はDNAによると思っている人も同様に、まるで分っていません。

(この稿、続く)