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「学校をいじれば社会が変わるという悪しき体験」~学校五日制の話②

 日米貿易摩擦から日本バッシングが起こった90年前後、どうしたら週休二日制を進め、日本の過剰労働を改めてアメリカに鉾を納めてもらうか・・・政府が悩ましい問題に頭を抱えているところへ知恵者が現れます。それが誰かは知りませんが、ドイツに学んだのです。

 ドイツは長いあいだ、夏の観光地に客が集中することに悩まされてきました。 人々がもっと分散して休みを取ってくれれば、アウトバーンも渋滞せず、そうなると混雑を嫌って遠出をしなかった人もどんどん観光に出かけて金を使ってくれる、なんとかそういうことにならないか・・・そこでなぜ夏休みが集中してしまうのか調べると、ほとんどの大人が子どもの夏休みに合わせて休みを取っていることが分かったのです。
 あとは簡単でした。政府は直ちに州ごと、学校の夏休みをずらすようにしたのです。すると見事に観光地の混雑は解消され、全体的として観光に出る人はむしろ増えたのです。

 日本の企業に週休二日制を定着させるためには、まず学校を週休二日にしてしまう。それが1991年に持ち出されたアイデアです。子どもが土曜日休みになると働くことをためらう人はたくさんいます。かくして徐々にではありますが、週休二日制は日本中に浸透していきました。

 学校五日制を決めたのは自民党の文教委員会でした。私はその日のことを良く覚えています。学校を終えて家に帰り、ニュースをつけたら突然決まっていたのです。ベルリンの壁が崩壊したのと同じように、ほとんどなんどなんの前触れもなく、それは突然降ってきました。衝撃的であっけないできごとでした。
 文部省に任せていたらいつまでたっても決まらない(実際、週休二日制の話は70年代から出ていたのに文部省はいつまでも“調査研究”で、十数年かかっても決めらなかった)。そんなところで話をさせてもバッシング対策には間に合わないのです。そこで自民党文教委員会で決め、一方的に指示したのです。

 慌てたのは文部省です。しかしそれだけではありません。20年近くも週休二日を要求してきたのに日教組まで「ちょっと待って! 準備も整わないのに」と必死に抵抗しました。しかし半年後の12月19日、正式な通達として学校五日制は全国に報らされます。実施が1992年度の2学期からという、教育制度としては非常に中途半端だったのも、学校の実情をまったく考えずに急いだからにほかなりません。

 ただし本来が教育問題でも教員の労働問題でもなく、貿易摩擦問題に対する対症療法的施策でしたから、学校五日制への情熱はバッシングが納まるとあっという間に消えてしまい、完全実施に10年もかかりました(2002年)。そしてそれとほとんど時を同じくして学力問題が起こり、五日制に対する疑問も出されるようになります。教員を遊ばせてはいけないと、夏休みに研修がびっしり入るようになったのもそのころからです。

 学校五日制のおかげで学校はほんとうに厳しくなりました。今の若い先生は知りませんが、公務員の週休二日が実施され、学校だけが6日やっていた時代はその休めなかった土曜日を全部集めて、夏休みに取っていたのです。ですから教員は堂々と休んでいましたし、休み中に学校行事を入れることも極力避けるようにしていました。ですから今よりずっと楽でした。

 覚えておいてください。それなのに「五日制は教員に楽をさせたい日教組が、ゴリ押ししてつくった制度だ」―そんな言い方をする人がいます。冗談ではありません。そういう話には絶対に抵抗しなくてはなりません。学校も教員も、学校五日制には翻弄され続けてきたのですから。