学校はどこまでをめざすのか

「中高合わせて6年も勉強しながら、結局身につかないような日本の英語教育は間違っている」という言い方があります。

 これに対する最初の反論は「小中高と12年間も学びながら、微分積分もベクトルもみんなできなくなってしまう日本の算数数学教育は間違っている、ベンゼン環や芳香環の違いも摩擦係数の計算の仕方もみんな忘れてしまうような理科教育も間違っている、しかし日本人の大部分が新聞や雑誌を簡単に読みこなせる以上、国語教育だけは非常に優れている・・・そう言っていいのか」というものです。

 日本人の英語が身につかないのは学校教育のせいではありません。最大の理由は「必要ないから」です。同じく必要のない数学や理科も、大部分の人は忘れてしまいますが国語は忘れません。なにしろ毎日必要なのですから。

 では、母国語以外に外国語が必要な国というのはどんな国なのか。その端的な例が”学力大国“のフィンランドです。

 フィンランドという国は日本の9割ほどの国土に533万人、つまり日本のわずか4%ほどの人々が住む国です。この“人口が少ない”ということは経済や文化に大きな制約をもたらします。それは例えば書籍の翻訳や映画の吹き替えが商業ベースに乗りにくいということです。

 小説で言えば「ハリー・ポッター」のように確実なものならともかく、売れるか売れないかわからないようなものは翻訳本として市場に出せません。専門書となればなおさらで、したがって大学教育を受けようとする人は相当な英語力がないと原書で行われる授業についていけません。ここにも切実な英語の必要性があります。

 映画も、ディズニー映画のようにヒットが確実なものには吹き替え版も出ますが、大部分は字幕スーパーです。日本で言えば金曜ロードショウといったテレビの洋画番組でさえ、字幕スーパーで行われます。字幕で我慢できなければ英語を覚えるしかありません。

 またフィンランドにはノキアLinuxといった有名企業がありますが、これらの企業に向かって内需掘り起しなどといってもまったく無理でしょう。なにしろ国土は日本並みでもGDPや人口はほぼ北海道と同じなのですから。商売は必然的に片端外国相手となり、外国語の必要性が生まれます。

 翻って日本はどうでしょう。書店には小説を中心して翻訳本がいくらでもあります。レンタルビデオを借りに行けばほぼ確実に日本語吹き替えがついています。何しろこの国では1万人に一人しか興味を示さない酔狂な作品でも、それを買ったり借りたりする可能性がある人は1万2600人もいるのです。こんな国で外国語の必要性が高まるはずがありません。

 だから英語教育なんか必要ないと言うつもりはありません。ないよりあった方がいい。

 しかし「日本人の大部分、あるいはせめて半分以上が外国人と気楽にしゃべれる程度の英語力をつけよう」といった教育は、「日本人の大部分が微積やベクトル、化学式や摩擦係数の理解できる理数教育を推進しよう」というのと同じように愚かなことです。だって必要ないのですから。英語も数学も理科もできない私のような人間は、社会科の教師にでもなればいいのです。無用な教科で弄られ痛めつけられることはないのです。

 では「ないよりあった方がいい」、そのレベルはどれくらいかというと、ここまで来てしまった以上簡単に戻せそうにもありませんから、せめてここで留めるべきというのが私の考えです。

 英語だけでなく、数学も理科も社会科も、もう日本の教育をあまりいじってほしくないのです。制度が何であれ、朝令暮改のごとくあれこれ変わりさえしなければ、私たちがなんとかうまくやり遂げるのですから。