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「そもそも”幕府を開く”ってどういう意味?」~ほんとうはここまでやっておきたい歴史教育

「1603年、徳川家康征夷大将軍になって江戸に幕府を開きました」
 小学校6年生以上を経験した人ならだれでも知っていることです。しかし「幕府を開く」ということに、子どもたちはどういうイメージを持っているのでしょう。私自身も子どもだった時はあるはずなのに、そのころ「幕府を開く」をどう感じていたのか、どうしても思い出せないのです。

 NHKの大河ドラマ江〜姫たちの戦国〜」で今週大坂夏の陣があり、淀君と秀頼が死にました。
 この戦いの場面で家康が構えていた本陣〜幕で囲まれた作戦基地〜が本来の「幕府」です。幕で囲った中心地という意味です。「幕府を開く」とは、戦場と予定される場所に自軍の基地を置くことを言います。
 つまり「家康は江戸に幕府を開いた」は、「家康は江戸に本陣を置き、臨戦態勢に入った」という意味なのです。
 では「臨戦態勢に入る」とどういういいことがあるのか。

 これはすぐれて政治的な話なのですが、臨戦態勢に入ると日本中の武装集団に命令を下すことができる上に、一切天皇の裁可を受けなくて済むのです。

 それはそうでしょう。戦場で敵が攻めてきたときに京都まで使者を走らせ、「応戦してよいでしょうか」などとお伺いを立てていたのでは戦争になりません。その場その場で将軍が独自に判断して対応する、それが戦いの原則で、頼朝や尊氏や家康が求めたものがそれなのです。

 実は701年の大宝律令の制定以来1867年の江戸幕府の滅亡まで(正確に言えばその後も)、日本は一貫して律令制度の国でした。ですから大岡忠相は越前の国司(越前守)を与えられ、遠山金四郎従五位下左衛門少尉を与えられています。大岡越前とか遠山左衛門尉(さえもんのじょう)と呼ばれるのはそのためです。

 頼朝や尊氏・家康は武力で日本を制圧しましたから、望めば左大臣(二位相当)でも右大臣(二位相当)でも、あるいは太政大臣(一位相当)であっても手に入ったはずですが、これらの人々は好んで五位相当の征夷大将軍を求めました。企業で言えば、社長も専務もいらない、係長にしてくれというようなものです。
 それはすべて、征夷大将軍だけがいざという時(臨戦態勢に入った時)天皇の意思を無視できるからです。

 したがって江戸という町は270年間に渡って戒厳令下にあり、だから夜間は外出もできません。平和な時代が延々と続いたにもかかわらず武士は身分を捨てられず、貧乏しながらも耐えなければなりません。なにしろ戦時下ですから。

 さてここまで長々と書いたのは、自分の知識をひけらかしたかったからではありません。「幕府を開く」をきちんと学べば、さまざまな知識が非常に定着しやすいということを証明したかったのです。

 また小学校や中学校の勉強が難しい理由のひとつがここにあります。いきなり「幕府を開いた」という話が出て、それ以上説明する時間がないのです。
 文化史で言えば「学問のすすめ」や「小説神髄」は日本の歴史や文学史をがらっと変えてしまったそれこそ「歴史的」文献なのです。しかしなぜそれが重要なのか、十分に説明されないため、どうしても心に落ちませんし頭にも入ってきません。

 東大を受験するような高校生は例えば「鎌倉時代」を学ぶときに鎌倉時代に関する新書本を数冊読破してしまう、という話を聞いたことがあります。これは非常に合理的な勉強法です。なぜならそうした本を読むと用語の意味は自然に理解できますし、重要な語句は重要度に応じて繰り返し出てきますから、自然に覚えられるのです。

 ただし言うまでもなく、それにはすさまじい読書力(特に速読の技)が必要です。本を読まなければならない理由の一つがそれです。