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「教科書が薄いと学習が難しくなる」~鎌倉幕府を例に

 研究会の席上で、久しぶりに小学校社会科の教科書を見せてもらいました。しかしそれにしても小学校の歴史、ほんとうに厄介です。

「1192年、源頼朝征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開きました」
 これで理解できる子が何人いるのでしょうか。

 私たちはすでに歴史をかじっているので多少は理解できますが、大人でも日本史をまったく知らない外国人だったら絶対理解できないはずです。頼朝はまだしも、征夷大将軍が何か、幕府が何か、そして「開く」ということがどういうことなのか、一切分からないからです。

 幕府というのは本来、戦陣の中心にあって大将が座り、作戦会議などが開かれるあの白い幕で囲まれた小さな空間を言います。“幕”で覆われた“府”(=中心)なので「幕府」と言います。「幕府を開く」というのは戦場に場所を確保して幕を張り、陣を展開すること、つまり「鎌倉に幕府を開いた」は「鎌倉を本陣として全国を戦場に見立て、部隊を展開した」ということになります。
 まだ何のことか分かりませんよね。

「鎌倉を本陣として全国を戦場に見立て、部隊を展開」すると何がいいかというと、何をするにもいっさい天皇の許可を受けなくてもいいということなのです。たとえば初代の征夷大将軍坂上田村麻呂ですが、彼は東北で蝦(えみし:東の野蛮人)を服しようと(だから征夷大将軍といいます)戦っている最中、いちいち天皇の裁可を受けたりはしません。敵が攻めてきたときに京都へ遣いを送り、「敵がきました。反撃してよろしいでしょうか」「よし」では戦争にならないからです。戦場ではすべてが現場の判断に任されます。
 そこが征夷大将軍の良いところで、幕府を開く意味もそこにあります。実際に戦闘があるかどうかは別として、とにかく幕府が開かれているあいだじゅう、自由に兵(武士)を動かせるのです。

 平氏の時代は、まだそのことに気づかれていませんでした。したがって清盛は貴族の最高位である太政大臣を望み、その地位を手に入れると同時に朝廷に取り込まれそうになります。
 清盛は晩年、京都を離れ、福原(今の神戸)に遷都して上皇法皇の影響力を振り払おうとしました。頼朝はその様子をしっかりと見ていたのでしょう、源平の戦いののち、彼は貴族の身分としてはそうとうに低い「征夷大将軍」を強く望み、その意味を十分に理解していた後白河法皇も存命中は絶対に渡そうとしませんでした。
 そして1192年、頼朝はついに念願のものを手に入れたのです。
 長々と書いてきましたがこの「長々」の方が、「1192年、源頼朝征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開きました」よりもはるかに分かりやすいですよね。

 前回の指導要領の改訂では少し様子が異なりましたが、昭和30年代から教科書は一貫して薄くコンパクトになり続けました。おかげで中身がさっぱり分からなくなってしまいました。ほとんど単語帳のようなものですから、いちいち調べないと意味が通らないのです。

「内容が少なければ少ないほど覚えやすい」というのが嘘だという典型的な話です。