カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「服装の乱れは心の乱れ」は間違って理解されている

 私が教員になったころ、勤務先の中学校の男子はすべて詰襟の学生服でかつ丸坊主でした。私服を捨て、断髪をして中学校に入るというのはなかなか気合の入るもので、小学生が中学生に生まれ変わる重要な契機となるものと当時は思っていました。

 しかしほどなく、丸坊主軍国主義を彷彿とさせるとか、髪型は個性だ(なんという薄っぺらな)とかいった話が持ち上がり、最後は人権問題として中学校から坊主姿は消えてしまいました。しかし、何かもったいないことをしたな、と今でも思っています。

 さて、なぜ日本の中学校には制服があるのか。髪を染めたりピアスをしたりすることは禁止されるのか、かつて丸坊主を強制したのはなぜか、そうしたことにきちんと答えていくのはなかなか容易ではありません。私たちは校則のひとつひとつを、いちいち吟味してから守らせようとしているわけではないからです。

 制服やアクセサリーについては、

  1. そもそもそうした華美は勉強の妨げになる、とか
  2. 服装を野放しにすると学校の平等原則が妨げられる(金のある子たちはどんどん華美になっていくから)、とか、
  3. そもそも学校にそんないい格好をしてくる理由があるのか、とか

 さまざまな言い方ができますが、どれも子どもを納得させるに十分ではありません。

 それはそうです。学校に制服やアクセサリー規程が残っているのは、子どものためではないからです。それが始まったころは子どもや家庭のためだったのかもしれませんが、社会が豊かになった現在ではそうでもありません。

 私は本気で思っているのですが、教師が服装や装飾品の制限を手放さないひとつの理由は、華美な服装やアクセサリーが私たちをイライラさせるからです。私たちが真剣に何かを伝えようとしているのに、子どもたちが「そんなことには興味はない。俺たちに関心があるのはファッションだぜ」と全身で訴えるからです。

 さらにもっと大きな理由があります。それは外見に制限をかけておくと便利だからです。何が便利かというと、心に揺れを生じた子は外見に何かの細工を始めるからです。私たちも私たちの先輩たちもずっとそれを感じていました。

 もしある日、突然髪を染めたりピアスの穴を開けてくる子がいたら、取りあえず話を聞いてみなければなりません。その子の内面で何かが起きているからです。それもかなり大きな変化が起きています。これは理屈ではなく経験知です。外見をいじる子は絶対何かをもっています。

「服装の乱れは心の乱れ」という言葉は「服装が乱れると心が乱れる」意味だと誤解され(たしかに誤解とは言い切れない面もあるのですが)世間からはバカにされますが、この言葉、実は「『服装の乱れは心の乱れ』のサインだ(だからしっかりと見、話を聞いてあげないさい)」という意味なのです。「心のサインを見落とすな」と同じです。

 心なんて目に見えません。それを可視化するためのサイン発生装置、それが制服や装飾品規程なのです。

 装置は取りあえず目盛りをゼロにしておかないと指針の振幅が見えません。全員に同じ格好をさせるのは、つまり目盛りをリセットする行為といえます。

 そういうと必ず出てくるのは「でも欧米の学校には制服なんてないしアクセサリーだって自由じゃない」という話です。それに対する答えも簡単です。欧米の学校は“心の教育”なんていう面倒なことは、していないのです。