カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「江戸時代の庶民はどれくらい米を食べられたのだろう」~米の話④

 さて「たてやん」さんのご指摘の通り、私の記した「日本人はほとんど米だけで民族をつないできた」は言いすぎで、「江戸時代の人々の食生活」とひとことで言っても武士と町人・農民とでは食事の内容がだいぶ異なりますし、都市部と農村部、山国と海浜部など様々に異なっていたはずです。
 また五公五民だの四公六民だのといった重税でも(ほんとうにさんな重税があったとは思えませんが)母数が大きければ豊かな暮らしができますし米の収穫高の極めて少ない地域では税率2割でもきついことになります。その意味では大穀倉地帯である美濃の農民と常に冷害に怯えなければならなかった東北地方の農民とでは生活の質が違ったはずです。

 紹介していただいた資料を見ると確かに一汁一菜(米と味噌汁と香の物)とはだいぶ異なります。もちろん「米3分の大根飯に稗を入れて」というのが貧しい食事なのか(米3分の大根飯でも大量に食えば十分なたんぱく質源・エネルギー源になる)とか、大豆や大麦、稗や粟、大根だの栗だの多様な食材を4回食で食べるのと一汁一菜ドカ食いのどちらが健康的か、幸かといったこともありますが、米の比重がものすごく低いのは明らかです。
 私が子どもの教えられた「江戸時代の農民はほとんど米を食べられなかった」を裏付けるような資料で本当は嫌なのですが受け入れざるをえません。私の祖先はこんな食べ物に耐えていたのか――と。

 さらにがっかりするのは、調べると資料に出てくる栗矢村・川内村・上穂村(ともに現在の長野県南部、現在は合併によって村名はなくなっている)はすべて幕府領なのですね。
 幕府は地味の良い土地を幕府領として残りを大名領にしましたから、幕府領の農民はそもそもが豊かなのです。さらに領主(徳川家・旗本など)は直接領地に行ったりせず現地に代官を立てたり送ったりしましたが、配下はせいぜいが10名程度。時代劇では悪行し放題の代官ですが、実際には強圧的なことをすればあっという間に殺されるか領主に訴えられてクビですから税率も極めて低く抑えられます(私の知る例では13%程度でした)。
 地味が良くて税率も低いのですから栗矢村や川内村・上穂村の農民は周辺の村々よりずっと豊かな暮らしをしていたはずです。それなのにこの程度。だとすると周辺の大名領ではどんな暮らしをしていたのか、思いやられます。

 しかしそれにしても私の持つ先祖のイメージ――江戸時代の農民はそれなりに食えていた、飢饉でもない限り腹いっぱい食べて栄養的にも問題なかった(必ずしも毎食おいしいとは言わないが)――とは合いません。もしかしたら信濃は特別貧しかったのかもしれません。

 実はそれを裏付ける証拠を、私はいくつか持っているのです。ひとつは江戸川柳です。

 江戸川柳では、信濃(長野県)出身者と相模(神奈川県)出身の女性は揶揄されることのツートップです。前者は大食い後者は好色でそれだけで江戸川柳集の一項目ができるほどなのです。
信濃者 三杯目から 噛んで食い (一杯目、二杯目は飲み込んでしまう)
さあ食って来るぞと 信濃の家を出て(出稼ぎに出るのも、とりあえず自分が食うため)
といった有様です。
 江戸市民から見ると笑ってしまうほど良く食べる、がっついているのが”信濃者”なのです。

 もうひとつは棚田。
 信濃といえば姥捨伝説の姨捨山が有名ですが、この山は「田毎(たごと)の月」と言って棚田に映る月も有名です。その棚田を見て、民俗学者柳田国男は泣いたと言います。
「信州(信濃)の人たちは、こんな場所にも田をつくらなければならないほど苦しかった・・・」

 能登の有名な「白米千枚田」、三重県の「丸山千枚田」、和歌山県「あらぎ島」など「日本の棚田百選」に出てくるような地域はみな特別に貧しいのです。段々畑と違い棚田は水が入りますから一枚一枚細かく計算して水平につくらなければなりません。傾斜が急であればあるほど一枚一枚の田は面積が小さく、形も複雑になっていきます。姥捨山の棚田もそんなふうにつくられました。まさに口減らしのために老人が捨てられる伝説にふさわしい土地だったのです。

 けれどそれが江戸時代の農民の平均的な姿であったわけではありません。全体とすればほんとうに苦しかったのは大飢饉のときと幕末の一時期だけで、江戸時代、私たちの祖先はけっこう豊かに、面白おかしく、そしてしたたかに生きていたはずです。そう私は信じます。