誰かに仕事を託そうという時、
まるでやる気のない人は最初から外す。
やる気はあるが今はできない人は、来期につなげる。
今やれる人に対しては、その倫理観・道徳観に訴える。
――という話。
(写真:フォトAC)
民生委員・児童委員(以下、民生委員)を引き受けた話をしています。
【二つ返事で役員を引き受ける】
9月に当時の現役民生委員2名を伴った自治会長がやってきて、引き継いでもらえないかと言ってきたとき、私はほとんど二つ返事で受けることにしました。「仕事は近隣のお年寄りの安否確認とおせち料理を配ることぐらいだ」といったいい加減な説明を受けたのはこの時です。私にとっては、ある意味で渡りに船みたいな感じでした。何か役を引き受けたかったのです。
もちろんそれまでも自治会長だの衛生部長だの公民館長だのといった依頼がなかったわけではありません。ただ数年前に非常に面白くない出来事があって、それ以来、自治会のいっさいの役は受けないと決めてしまったのです。そあと数年間、役員改選のたびに声がかかったのですが、
「男の口から出たものは、ツバも言葉も戻せねぇ!」
と昔のやくざ映画か何かのセリフを心に呟いて、かたくなに拒否し続けてきたのです。おかげで最近は言われなくなったのですが、ただしそれがけっこう後ろめたく、心苦しく、負い目でもあったのです。あれやこれやと自治会にはお世話になっているからです。
【堂々とした顔で生きていたい】
市の広報やその他の書類は自治会を通して配られます。ゴミの集積所がいつも清潔にされているのは衛生部のおかげです。水路の掃除、氏神の大祭の運営補助、除雪、避難訓練――。災害なんてめったにあるものではありませんが、自治会に喧嘩を売ったような状態で災害があって、自治会の運営する避難所での生活が始まったらかなり気まずいだろうな、とそんなふうに思っていました。すでに隣組からも抜けてしまった人がいますが、非常の際、その人は“どの面を下げて世話になるんだろう”という思いが私にはあります。もちろん避難所の設置は市町村の責任ですから納税者のひとりとして堂々としていてもいいのですが、私にはできそうにありません。
また、大災害といった極端なことでなくもても、日常生活の中で誰かを働かせ自分は楽をしているという思いが、のどに刺さった小さな魚の骨のようにいつも気になっていたのです
だから何らかの形で自治会の役に立つ仕事をしておきたい、しかし自治会の役員は件の事情で立候補することができない――。
そこに降って湧いたのが民生委員の仕事だったのです。民生委員は対象地域が自治会と重なりますが、厚労省の管轄ですから自主組織である自治会とは別枠です。別枠だから自分の言葉に縛られることはない。そこで二つ返事で引き受けたわけです。
これで私も晴れて地域の一員として大きな顔ができます。けっして“やってもらうだけ”の依存的人間ではなく、地域の力を貸すことのできる主体的人間なのです。
【役員選で狙うべき人、狙うべき心のありよう】
昨日も言った通り、世の中をコスパ・タイパの観点でしか見ることができず、もらうものはもらうが出すものはビタ一文ださないというひとがいます。共感とか責任とかいった当たり前の倫理観・道徳観を持たない人たちで、しばしば周囲の人たちをいら立たせますが、それでも基本的には社会が守っていかなくてはならない人たちです。能力がないのですから。
「能力のある者が能力のない者を守っていく仕組み」が民主主義である以上、常に社会のために働くのは強者だけです。不公平を嘆いても仕方ありません。そもそも能力のあるなし自体が不公平なのです。
そして強者の中にも、序列があり抜き差しならない事情もあります。“能力があるのだからお前も背負え”とは単純に押し付けられない状況――私のように“どうでもいいこと”で振り上げた拳の降ろしどころが分からない人、とりあえず今は忙しくてダメ・今年はダメという人、大勢の前で手を挙げるのが嫌なだけの人、自分の能力に自信のない人――しかし共通して持っているのは、何かの役に立ちたい、してもらうだけでは気が済まない、何もしないことに負い目がある――そういった気持ちです。
荷を担うように呼びかけるべきは、そういう人たちです。
(この稿、続く)