カイト・カフェ

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「日本人には“掃除をしたくなるDNA”がある、らしい」~私の常識は世間の非常識④

 試合後のワールドカップの会場やハロウィーン明けの渋谷、
 東日本大震災の広範な被災地・避難所で繰り返し見られた日本人の美質。
 それを人々は「日本人のDNAに刷り込まれた性質」と表現する。
 しかし私の常識は《違う》と叫ぶ。それは私たちが育てた能力なのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【ワールドカップ会場とハロウィーンの渋谷】

 本能的なものでない限り人間は習わなかったことはできない。もし何かができるとしたらそれはどこかで習ってきたからだ――と、それが教育の原則だと私は思っています。私の常識です。
 
 ワールドカップのサッカーやラグビーの会場で事前にビニル袋を配布し、自らのゴミをその中に入れて、試合後は周辺のゴミまで集めて集積場へ持っていく観客たち。他方では試合直後で疲労困憊しているはずなのにロッカールームを完璧なまでに掃除して帰って行く選手・スタッフたち。皆ができるのは、そうするものだと誰かが教え、子どものころから練習してきたからなのです。
 
 しかしこうした海外での優れた実践が話題になると必ず、
「あれは外向けの、特別な場所における特別なできごとで、例えばハロウィーンのあとの渋谷の道を見てみればいい、みんな平気でゴミを捨てているじゃないか」
といった言い方が出てきます。
 日本人としての自画自賛が恥ずかしくて、敢えて皮肉を言いたいのか、”同じ民族としてオマエもやれ”と同調を求められてはかなわないと思っているのか、いずれにしろ“他人の価値ある行い”にツバを吐きかけるような言動は、厳に慎むべきでしょう。
 さらにまた、そういうことを言う人たちは、大切なことに気づいていません。確かにハロウィーンの渋谷には自ら持ち込んだコスプレ衣装や飲食物を、わざと捨てて帰る人がいます。しかし持ち帰る人はもっと多く、翌朝、清掃のためだけに、わざわざ渋谷まで来る人も大勢いるのです。より大切なのはこちらの方です。

【みんなができる必要はない、大多数ができればいい】

 集団の道徳性を考える上で重要な点のひとつは、「『全員が及第点でなければ意味がない』と考えてはいけない」ということです。例えば学校で「下足箱の靴をきちんと揃えよう」という目標を立てた時、「全員がきちんと靴ぞろえをしなくてはだめだ」というふうになると実に苦しいのです。善人で有能な子どもを選択的に集めでもしない限り、全員がよくなるといったことはありません。

 いろいろな子どもたちがいるクラスで全員を高めようとしても、必ず指の間から漏れて落ちてしまう子が出てきます。どうしてもできない子がいるのです。だったらどうすればよいのか――。答えは簡単です。できない子の分を、できる人が補ってやればいいのです。良きクラスというのは必ずそうなっています。
 教室にチリ一つ落ちていないとしたら、だれかが拾っているのです。意地悪やいじめのないクラスは、全員が聖人になったのではなく、そこに何人か、友だちを大切にし、友だちの不満や不安に耳を傾け、真剣に寄り添ってくれる仲間がいて、悪心が起こった時には「ダメだよ」と遮ってくれるからです。お互いに助け合おう、補い合おうと、いつも教えられているのです。
 ところでそうした「善きサマリア人(びと)」みたいな子は、どこから来たのでしょう?

 もちろんどこかからやって来たのではなく、育てられたのです。家庭で育てられ、学校でさらに丁寧に育てられたから、そうした行いができるのです。

【誰が道徳性を教えたのか】

 2011年3月の東日本大震災はたいへんな災厄でしたが、その中にもいくつかの光がありました。そのひとつは私たち日本人が、自らの道徳性や能力を再確認できたということです。
 自分自身の命も顧みず、人を助けようとした警察官や消防署員・消防団員、役場の職員、地区の役員、そしてその他市井の人々。助けられる方も自分の中にわずかな余裕を見つけて、助けられる順番を他人に譲ったり、後押ししたり・・・。
 避難所が設営されても、運営の主体である行政の担当者はほとんどが自分自身被災者で、中核となる人々が全員亡くなってしまった町もありました。だから避難民は自ら避難所の運営に当たらなくてはならなかったのですが、人々はなぜああも易々と分担を受け入れ、仕事を見積もって責任を果たすことができたのか。
 配給物資を受け取るのに長い長い列をつくり、必要以上のものは受け取らず、辛抱強く待つことができたのはなぜか。絶望的な状況に押しつぶされることなく、繰り返し立ち上がれたのはどうしてなのか――。

 もちろんそこには繰り返し天変地異に襲われてきた日本人の知恵と伝統もありましたが、それを平時から繰り返し意識させ、練習し、集団性を高めてきた組織があったからこそできたことなのです。
 学校です。それを忘れてはなりません。

 避難所で配給を受け取り公平に分ける姿は、幼稚園や保育園、小中学校の給食の準備を見るだけでも分かります。自分の使った場所の掃除をすること、一日のスケジュールを確認して広報すること、レクリエーションの時間を持つこと、対策本部と連絡を保つこと、名簿を整理すること――それはらは決して楽な仕事ではありません。しかし児童生徒会、学級活動、あるは運動会や修学旅行など行事のたびにつくられる係と活動、あんなことを毎日10年もやってくるわけですから、身につかないわけがないのです。仮に自身の身につかない人がいても、他人の邪魔をしないくらいの分別は身に着けてきます。

 日本の学校教育はこの”社会的能力を高めようとする部分”が膨大で、だからこそ世界に認められる独特な文化が維持更新される、と私は信じています。それが私の常識なのです。しかし――。

【日本人の美質は、自然と身についているものなのか】

 しかしそうした日本人の底力、忍耐力、いざというときに示せる集団性や協調性などを、メディアは「日本人に染み付いたDNA」と呼び、その非科学的な言い方をだれも訂正しようとしません。日本人夫婦から生まれれば外国人に預けられて外国で育っても、自然と掃除好きの日本人が育ってしまうと本気で思っているのでしょうか?

 もちろん、比喩だということは分かっています。しかし「DNA」という言い方には、《誰もだが持っている同じ性質のもの》という意味合いもあれば《努力しなくても維持更新できるもの》といったニュアンスも入り込んでいます。

 DNAなどと言い出す人たち(マスコミ関係者や一部の政府関係者)は、「日本人の美質を残したり高めたりするためには努力が必要だ」などとはまったく考えもしません。その上で学校から清掃だの係活動だのといったものを極力減らそうとさかんに呼びかけているのです。
 しかし日本人の美質は学校が維持更新していると信じる私は、行事を精選して英語やプログラミングを教えようという現在の方向に、震えが止まらないほどにおののくのです。
(この稿、続く)