カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「PTAを如何にせん」④

 私は立場上、学校関係者の会合で司会を頼まれることが多かった、そういう時期がありました。しかし多くの人が敬遠するこの司会業、参加者が教育関係者(多くは教員)である場合に限って、ほとんど苦にならないのです。なぜなら相手が教員である限り、彼らは必ずしゃべってくれるからです。
 もちろん日本人ですから次々に手を挙げて「ハイ、ハイ、ハイ」というわけにはいきませんが、指名さえすれば絶対にしゃべります。しゃべるのが商売ですから常に準備ができているのです。
 そうした事情を知らずに、挙手がないので簡単に済ませ、そのまま会議を終えたりすると逆に恨まれます。はっきりと口にこそ出しませんが、ほんとうは話したいことがあったのです。彼らは欲求不満を抱えたまま、渋々と会議場を後にしたりします。

 ところが同じことを町内会やPTAの委員会でやったりすると、今度は指名したことに逆に恨まれます。公共の場で発言したことがない、能力を晒すようで嫌だという人はいくらでもいるのです。そんな人に指名して恥をかかせてはいけません。
 PTAの役員決めが難航する最大の理由がそこにあると私は思っています。人は自分の能力など曝したくないのです。力のある人でもそれをひけらかすのは嫌いです。できれば目立たないようにして、小さくなって暮らしていたいのです。それが基本的日本人のあり方です。

 もちろん、余計なことに時間やエネルギーを奪われたくないというのももう一つの大きな理由です。よほどのお金持でない限り、有閑の専業主婦などという人はめったにいません。PTAの役員を軽々と引き受けられるような人が家庭に引っ込んでいるはずもなく、もともとは能力のあった人も何年も家にいるうちに次第にスキルや自信を失ってしまったりしています。
 かくして誰も役員を受けたがらないという現在の状況が生まれます。しかし他方で、これまで考えてきたようにPTAの活動は価値あるものでなくすことができないという事情もあります。PTAは非連続の連続と言われるようにメンバーは毎年入れ替わるのに、活動は連続しなければならないのです。

 このお話の最初にあった「保育園に子どもを預けなければならない午前8時のPTAに絶対休んではいけないと言われた」とか「苦労して休みを取って出かけた仕事は、私がいなくても構わないようなものだった」とか、あるいは(PTAの役員選挙で)「誰か一人を必ず推薦しろ、しなければ立候補したとみなすと言われた」とか「介護があるから無理だと言ったがまったく取り合ってもらえなかった」とか、「病気だから無理だと言ったら総会でそのことを言い、みんなの納得が得られたらいいと言われた」といった無茶苦茶はそうした状況から発生してきます。

「保育園に子どもを預けなければならない」といった事情を常識的なものとして認めると、同様の「常識的な事情」を訴える人が何十人と出てきます。「私がいなくても構わないような仕事」と分かっていても、同じように感じる人が全員欠席すると(もしかしたら)誰も来なくなってしまうかも知れません。

 PTAの役員選挙で、「介護だから無理」「病気だから無理」をいちいち精査することはできません。なぜなら同じような訴えをする人が何十人もいるからです。またそれが認められるとなるとさらに何倍もの「俄か介護」が出てきたりします。
 PTA役員になることの一番の苦労は、もしかしたら通常の役員としての仕事ではなく、最後に誰かに引き継がなければならないということなのかもしれないのです。

(この稿、続く)