NHKの朝ドラ「あんぱん」が終わる。
まもなくあの有名なバッドガイ(悪役)も登場。
魅力的なわき役がそろい、やがて消えていく。
私の人生からも、大切な人たちがいなくなる。
という話。
(写真:NHK)
【圧倒的なバッドガイ=ばいきんまんの魅力】
半年間楽しんできたNHKの朝ドラ「あんぱん」*1が、いよいよ来週、最終週です。朝ドラ前作の「おむすび」は散々なできでしたが、今回は破綻がなく、安心して見ていられました。やはり半年の長丁場、オリジナル作品はどうしても迷走しがちで、評価の高かった「あまちゃん」でさえあとから考えると迷走しっぱなしでした。もちろん宮藤官九郎なら迷走自体が面白い、というふうにはなっていましたが。
「あんぱん」は漫画家の“やなせたかし”とその夫人がモデルの物語で、まったく無関係のところで生まれ育った夫妻を幼馴染にしてしまうという大胆な設定で始まりましたが、どんなに迷走しても戻る場所があるわけですから全体はまとまりの良いものだったと思います。
現在は主人公柳井嵩(北村匠海)がこだわり続けてきたアンパンマンが、ようやく子ども向けマンガとして成功を収め、代表作のなかった柳井に栄光をもたらそうという段階です。柳井は最初アンパンマンを“自分の体の一部を切り裂いても人々に与え、飢えから救うという究極の正義を貫くヒーロー”として描きたかったようですが、それだけでは現在のような人気者になることはありませんでした。ドラマ中では多くの人々が繰り返し、「何かが足りない」と言っています。
もちろん今の私たちなら分かります。アニメ「アンパンマン」の最大の魅力は”ばいきんまん”とドキンちゃんで、この二人が登場してこそ初めて、「アンパンマン」はドラマとしての厚みを増し、みんなのものになるのです。
【ドキンちゃんを何とかしたい】
私は2013年10月16日、”やなせたかし”さんが亡くなった三日後のこのブログ*2で、こんなふうに書きました。
このアニメの中でもっともどうしようもない存在はドキンちゃんです。わがままで身勝手、堪え性もなければ努力もしない、能天気で人の気持ちも分からない。そのままだと誰も相手にしてくれないところを”ばいきんまん”に助けてもらっている。しかしそのことをまるで分かっていない。本当に分かっていない。
”ばいきんまん”は一人でも生きていけるのに、ドキンちゃんを一人ぼっちにできないばかりに側にいて、側にいるから二人ぼっちにならざるを得ない。別に愛しているというわけでもないのだけれど、他に誰もいない以上、自分が側にいるしかない、そんなふうに思っている。
しかし、もしかしたら”ばいきんまん”の存在が、ドキンちゃんをさらに反省のない、どうしようもない子に追い詰めているのかもしれません。そう思えてきます。
こういう子たちにはどうすればよいのか。
私はいつもこういう面倒くさい子たちのそばにいたいと思っていましたし、いまもその気持ちがあります。”ばいきんまん”はともかく、ドキンちゃんには“愛され方”の勉強と修業をしてもらわなくてはなりません。ドキンちゃんが何とかなれば、”ばいきんまん”を私たちの仲間に引き入れるのは、そう難しいことではないと思うのです。
【魅力的なわき役たち】
NHKの朝ドラ「あんぱん」にも主人公以外に魅力的な人物はたくさんいました。
主人公浅田のぶ(今田美桜)の祖母の“くら”。演じたのが私たちの世代にとっては永遠の妹・浅田美代子ですから何とも言えません。柳井寛(竹野内豊)・千代子(戸田菜穂)夫妻は理想的な夫婦で、特に千代子は意地悪な継母かと思ったら実の母以上に子どもを慈しむ母親らしい人で、ほっとしました。
母親といえば実母・柳井登美子(松嶋菜々子)はまるっきり生まれっぱなしで、何も身につけてこなかったような人です。これから軍隊に入ろうという嵩が、
「ボク、軍隊に入ってやっていけるのだろうか」
と弱音を吐くと、
「なに言ってるのよ――無理に決まっているじゃない」
と言い放つ無神経ぶりです。
もしかしたらドキンちゃんの原点がここにあって、”ばいきんまん”の嵩が必死に社会とつなげていたのかもしれません。
嵩の弟の千尋(中沢元紀)も印象に残る人物でしたが、役者としては何と言っても “のぶ”の二人の妹、蘭子(河合優美)とメイコ(原菜乃華)がともに異彩を放っていました。将来の大女優を確実にするような名演技でした。
ただそうした印象深い人々の中にあって、いつの間にか消えて二度と戻ってこない人たちもいます。
何かありそうだったのに結局何もなかった柳井家の女中の“しん”。“のぶ”を愛国の鑑に育てた女学校の黒井先生。戦後“ガード下の女王”と呼ばれた女性代議士・薪鉄子――それぞれ強烈な存在感を発揮しながら、いつか消えて二度と出てくることはありませんでした。みんな何かを抱えていそうな(あるいは抱えていくことになりそうな)人たちでしたが、その後の人生をどう生きてどんな終着を迎えたのでしょう? 知ってみたい気がします。
しかし脚本家の中園ミホはそんなところまで手を伸ばしたりしないでしょう。物語の終わりで、すべてが回収されるようではやはり変です。私たちの実人生でも「いなくなった人々」は少なくないのです。
【いつか切り捨ててきた人々】
振り返って私の人生にも重要な人はたくさんいました。大切な人たちだったのに今も交際のある人はさほど多くはありません。もちろん最近まで付き合ってきた人たちの現在は大筋で想像できます。しかし30年、40年、あるいはそれ以前に離れてしまった人たちの今はまったく想像がつきません。
学習塾の講師だった時代の教え子の幾人か、教員になってから学級担任・教科担任としてかかわってきた児童生徒たち・同僚の一部、数少ないですが職業の外で付き合いのあった何人かの人たち――。
良い子だったり、優秀だったり、辣腕だったりする元教え子や同僚、そうした人たちの現在は大枠で想像ができます。しかしそうでなかった人たち、学校の勉強がまったくできなかった子や、人間関係の問題を抱えていた子、素直になれなかった子や私ばかりを見て反発していた子、そうした子たちの現在を思い浮かべることは困難です。
今、死ぬまでに会ってみたいのは、そうした私のドキンちゃんや“ばいきんまん”たちです。