引っ越しのために娘を転園させる際、
保育園に出した手紙が31年ぶりに出てきた。
親がひたすら園を頼り、
園がそれに応えようとした蜜月の時代があった、
という話。
(写真:フォトAC)
【意図しないポスト・カプセルが出てきた】
終活はありませんが、二人の子どもが都会へ出てしまった後はだらしなく倉庫にしてしまっていた子ども部屋を、少しずつ片付け始めました。子のものも親のものも一緒くたに置いてあったのですが、あれこれ移しているうちにペロンと落ちた二つ折りの用紙があって、見ると30年ほど前、私が娘の通っていた保育園あてに書いた手紙でした。
平成6年の3月、私の転勤が決まって、それまで住んでいたM村を離れる際、お礼の気持ちを込めて書いた手紙の写しが残っていたのです。内容はもちろん、書いたことすら忘れていたのですが、紙の資料というものはありがたいもので、こんなふうに無理やり目の前に現れることがあります。電子データだったら埋もれたままだったでしょう。
このブログではシーナという仮名でたびたび顔を出している、今は35歳になったその子の、4歳の時の話です。
私たちにとっては初めての子で、とてもいつくしんで育てたつもりですが、両親がともに教員などという家の子はろくなものではなく、園で一番最初に登園し、一番最後に家に帰るような生活でした。今から思うと可哀そうだったのかもしれません。
そんな調子ですから、私たちには「シーナは保育園に育ててもらった」という強い意識があり、感謝の気持ちも尋常ではなかったように思うのです。
したがって、もしかしたら当時にあっても特殊な家庭であったのかもしれませんが、昭和の匂いの残るまだまだ情緒的な時代に、私たちがどんな気持ちで保育園という組織やそこで働く人たちを見ていたか――そうした価値観の一端を垣間見ることのできる資料ともいえます。
どうやら当時から冗長になりがちな傾向があったと見えて、内容は薄く文章は無駄に長い手紙ですが、ひとつの資料として読んでいただけるとありがたいと思います。
【31年前の感謝の手紙】
『長い間、本当にお世話になりました。今日までなんとかやってこられたのも、みんな先生方のおかげだと、心より感謝しております。
考えてみれば4年前の8月、まだダルマのようにコロコロと丸いシーナを抱えて保育園にお邪魔したときは、私ども二人とも、まだ一歳の子がどのようなものか、本当のところはまるで理解できていなかったようです。ただ漠然と、来年の4月には1歳2ヵ月だから歩くくらいはできているだろう、一応の離乳は済んでいるだろうなどと、育児書に書いてあることを鵜呑みにし、何となく不安を抱かないまま過ごしていたようでもあります。
ところがどっこい、入園の4月がきてみると、歩けもしない、満足に食べることもできない、人見知りこそしないものの明らかな意志表示もできない、もちろんオムツもとれない、そして・・・元気良く走り回る3歳児の中にあって、別格の一人としてお世話になるのはあまりにも忍びない姿でした。今月ですでに23冊目になる連絡帳の、先生に書いていただいた最初の一行(それは中山先生のものでした)を、私たちは見ることなしにそらんじることができます。「泣きもせず、笑いもせず、困った様子も見せず、一日中本当によい子でした・・・・」
その一文を無上の喜びをもって何度読んだことか。 そしてひとつひとつ、積み重ねるように、娘の成長を見続けながら、今日まできました。
気ばかりが進んで、足はさっぱり進まなかった初めての運動会、直前に水ぼうそうになって練習不足のまま参加したお楽しみ会(頭トントン、肩トントン、背中トントン、足トントン・・・・遅れたり間違ったり、それでも嬉しそうに演技していた姿は、一本のビデオとともに、私たちの宝物です)。
藤村先生のバイキンマンに泣きっぱなしで格好の悪かった2年目の運動会、父ちゃんばかりがムキになって走った3年目。「入れて!! シーナです!!」、あんなに怒鳴らなくてもいいのに、と思わされた2年目のお楽しみ会、「シーナね、見つからないようにうまく隠れていたんだよ」と、ちょっと余裕を見せるようになった3年目。
冬の6時近くの、すっかり暗くなった夜道を、一人ぼっちになってしまった娘を迎えにいった時のこと。あまりに美しい月に思わず立ち止まると、娘が月を指差して「デタ~」 (「出た、出た、月が・・・」と歌う内に、娘は月の名が「デタ」だと思い込んでしまったのです)。帰りの車の中で「シーナ、今日はみんなと仲良くできたかい」と訊ねると、いつも元気に「バッチー」(バツなのかい? バッチ・グ?なのかい?)。
ああそうそう、たまたま時間が重なって夫婦が一緒に迎えにいくことになった夕方、あまりの嬉しさに喜びの表現がわからず、にこりともせず星組の教室をただ黙々クルクルと走り回って先生をてこずらせたこともありました。
いい子でお昼寝をしているかと思っていたら、結局は家でやるのと同じようにオンブされて寝付いていただけだと知ったときのこと、山ほどの汚れ物を引きずって帰ったこと、我儘を言って一人で砂場遊びをしていたこと。担任が代わるごとに前の先生をさっさと忘れて冷淡な様子を見せたこと、身長がさっぱり伸びなかったこと。――がっかりすることも頭にくることも山ほどありました。
ナミちゃん、タロウくん、ナツコちゃん(「なつこ」は、シーナが初めて書いた文字です。きっとナッちゃんが自分の名を書けるのが羨ましかったんでしょうね)。レンちゃん、ヒロキくん、コウちゃんの名は繰り返し現れ、マコちゃんやレミちゃんはシーナやサミちゃんとともに年じゅう異なるセーラー戦士の役で現れていました。
ヒロキくんはきっと優しい子なんでしょうね、いつもシーナの側にいてくれたように感じています。シーナの憧れの人は以前はコウちゃんだったようですが、最近は聞こえてくることもありません。
浅川サミちゃんは生後6ヵ月からのお友だちです。シーナの我儘を抑えてくれるのもこの子でしたし、背の高いのを良いことに「この指、止まれ」などと言って指を高く掲げ、シーナをからかって泣かせたのもこの子です。そしてシーナが遠くへ行くと聞いて、だれよりも悲しみ、怒り、親をてこずらせ、泣いてくれたのも、おそらくこの子が一番でした。シーナと話していると、レミちゃんやナツコちゃんやマコちゃんの話はしょっちゅう出てくるのに、サミちゃんだけは除け者のように現れてきません。その癖「保育園で一番好きなのは?」と聞けばまず担任の先生の名が挙がり、「お友だちで一番好きなのは?」と聞きなおすと、それは常に「サミちゃん」でした。サミちゃんには、いつも果てしなく支えられて今日まできました。
思い出は尽きません。
あれもこれも懐かしく、これもあれも想い深いものです。
目的地が保育園の隣の中学校という、とんでもなく遠い遠足(この言い方の半分は冗談で、半分は本気です。本当にさっぱり着かなかったみたいですね)。参観日、お誕生会、クリスマス会、ひな祭り。ひとつひとつ書き始めたら、文は果てしなく、尽きることなく続けられそうです。けれどもう終わりにしましょう。それらは20冊を越える連絡帳の中にいっぱい詰まっているのですから。
3年間、本当にありがとうございました。親の不備からとても「立派に」とは言えないものの、とにかくなんとかここまで成長してきました。
シーナは私たちが育てた子ではありません。あの子は先生方を始めM村のたくさんの人たちに(言葉は不適切ですが)「寄ってたかるように」大切に育てられてきた子です。本当に、本当に感謝の気持ちは言葉に言い尽くしがたいものがあります。本当に、本当に言葉がいくつあっても言い表せません。
やはり本人に言わせるのが一番でしょうね。(シーナの手書きのコピーを添付*1)
ありがとうございました。
平成6年3月25日 SuperT 』
*1:「おわかで(れ)だね。しいな、おわかで(れ)、やら(だ)。せんせいのとこがいい。(また) みんなであそびましょ」