政府は万民のための教育を諦め、人材確保に舵を切った。
優秀な人間を育てれば、他は自然に引き上げられるという。
親が学校から手を引き、学校は家庭から手を引く、
そして子の将来を決める要素が、家庭のあり方のみになる、
という話。
(写真:フォトAC)
【不本意な部活で活躍するか、やりたい部活で球拾いか】
部活動の地域移行というのも、結局は課外活動が親元に返って来ることです。そしてそろそろその形が見えてきました。
もう20年以上も前から取り組んできた懸案ですが、例えば今、20部活(男女バスケ、男女バレーなど)もある学校で、そのすべてを地域の人々にやってもらうなど、とうていできることではありません。
文科省及び文科省の指示を受けた市町村教委は盛んに、「地域に移行すれば一流の指導者の指導が受けられる」とか言っていますが、中学校の1学区の中に20人もの一流を確保するのは不可能です。
しかも「土日のいずれかで4時間の練習をした上に、週日は毎晩2時間程度の指導をほとんど無料してくれる一流のコーチ」はいわば形容矛盾で、一流ならその時間でとんでもない収入を生み出すはずですから、「ほとんど無料」ということはあり得ないのです。とりあえず一流でなくてもいいから指導できる人を探すとしたら、いることはいますが、大部分はその学区内に職場を持つ教師たちでしょう。
行政はまた、「少子化で規模の小さくなった学校では好きなスポーツが選べない、部活動の地域移行は校内に希望者がひとりしかいないような競技にも、生徒が参加できる画期的な方法だ」みたいな言い方をしていますが、これまでだって生徒数20人とか30人といった小規模校では吹奏楽と卓球とテニス、みたいに数種類の部活動しかありませんでした。それでも不満が出なかったのは、ひとつには、ほんとうにやりたい競技が学校にない場合は、野球でも柔道でも、親がジュニアリーグや柔道教室を探してその都度、移送してくれていたからです。こだわりのあるスポーツのある子どものほとんどは小学生のころから地域のスポーツクラブに所属していますから、中学校に進学しても、そのまま続ければいいだけだったのです。
そうではない、特別のこだわりを持たない子たちは、学校にある吹奏楽と卓球とテニスの中から選ぶしかなくなりますが、それでも不満は出ません。人数が人数ですから吹奏楽部は1年生の4月から楽器に触れますし、卓球部やテニス部は初日からラケットを持っての練習です。中規模以上の学校の部員が球拾いをしている時間も、卓球台3台に部員10人、テニスコート4面に部員8人みたいな学校では休む暇がありません。下手をするとヘトヘトになるまで練習させられてしまいますからあっという間にうまくなる。運動系なら1年生の6月から、吹奏楽部員でも秋のコンサートから有力メンバーです。
実質的な練習時間が豊富で1年生の時から試合に出されるとなると、普通の運動神経の子でも強くなるのが当たり前。へき地の小規模校からしばしば地区大会の優勝者が出るのはそのためです。少し経験を積んだ顧問の下なら、県大会出場くらいは軽く達成できます。
しかし部活動の地域移行が進むと今後は違ってきます。そう遠くない将来、小規模校の子たちは親に送られて街場の大きなクラブに所属し、ほんとうにやりたかったかもしれない野球部やサッカー部で、ボール拾いから始めることになります。果たして選手になれるどうか、十分に生き生きと活躍できるかどうか――。
【放課後の子どもの生活は、親が決め、親が責任を取る】
昨年の暮れ、神戸市は市内の全公立中学校で、2026年8月までに学校単位での部活動をすべて終了し、地域のスポーツ及び音楽クラブに移行すると発表しました*1。
今後どのようなスポーツチーム・教室ができるか分かりませんが、将来のアスリートや演奏家・俳優等を目指して本格的な練習に取り組む子たちと、気楽にスポーツや芸術を楽しむ子たち、塾に通って勉強に集中する子たち、そして昔で言う「帰宅部」のような家居の子たちの4種類に分かれるはずです。私は懐疑的でしたがママさんバレーのようなスポーツチームの中には、若い血が入る上に中学校の体育館が自由に使えると歓迎する向きもあるようです。案外うまくいくかもしれません。
もちろん地域の教室に通ってはみたが選抜ではねられたとか、途中で意欲を失ったとか、最初から保護者に送迎や資金の余裕がなくて参加できないとか、そういった理由で地域クラブに参加することなく、したがって学校の授業以外でスポーツや芸術に触れることのない子どもは当然多くなります。しかしそれもいたしかたないでしょう。
親は我が子の資質を見極め、本格的にスポーツや芸術をやらせるのか趣味程度にとどめるのか、勉強をしっかりさせるのかそれとも子どもの自主性に任せるのかを決め、自分たちがどの程度協力できるかを計算するしかありません。
1980年代のアメリカの有名な殺人鬼の父親は「親の愛は数値で示せる」と言っています。
「それは親が我が子のために、自分の時間をどれだけ犠牲にできたかということだ」(ライオネル・ダーマー著『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』)。
いかがでしょう?
【学校に任せた子育ての多くの部分が親元に帰って来る】
部活動の地域移行は、保護者・学校(教師)・政府(行政)の今後のあり方を如実に表現しています。
政府は既に40年近く以前から学校教育の軸足を「保護すべき底辺の子たちの支援」から「エリートの育成」へと移しています。挨拶だの清掃だの分担だの協力だのといった生活の基盤をつくり、日本の子を日本人に育てるための教育(特別活動)の時間を減らし、小学校英語やプログラミングに力を注ぐようになったのはいかにも象徴的なできごとでした。SNSなどを見ていても「学校は勉強を教えるところ、躾けは家庭の仕事」といった意見を散見しますが、学校教育全体もそうした方向に動いているのです。
もちろん現実を生きる生身の教師は目の前の子どもが可愛いですから、不出来な子ほど一生懸命に育てようとします。しかしかつてのように心理的にも現実的にもズカズカと家庭に入り込んで《ああしてください》《こうしてください》《一緒に子どもを育てましょう》と言える時代ではありません。おのずと限界も見えてきます。
「情報も出さない汗も流さない、けれど私の思うように、オマエがウチの子を育てろ」
では物事が進まないのです。
【究極の親ガチャ時代がやって来る】
「どこの大学を卒業したかで人生が決まる時代は終わった。これからはどこの家に生まれたかで決まるようになる」
と身も蓋もない話を聞いたのはもう30年以上も前のことです。その後いまから10年ほど前に「親ガチャ」という言葉が生れ、ユーキャンの新語・流行語大賞でトップ10に選ばれたのが2021年でした。
ただしそのとき聞いたニュアンスは私の覚えていた「どこに生まれたのか」とは少し違い、「金持ちの家庭、または頭のよい家系に生まれればアタリ、そうでなければハズレ」といった軽薄なものだったと記憶しています。その意味での「親ガチャ」論に、私は与しません。
金持ちの家や親兄弟が全員東大卒と言った家に生まれた子が、必ずしも幸せにはならない事実をたくさん知っているからです。しかしきちんと躾けられ、人を思いやる豊かな感性と自他を助ける確かな知識や技術を育まれた子どもは、間違いなく確実に幸せになれます。少なくともそうでない子は幸せにはなれません。
かつての学校は子育って一部を自らに引き受け、善き国民を育てるのは重要な仕事と心得ていました。そのために「型にはめる」だの「画一化教育」だの「金太郎飴を生み出す」だの、ずいぶん叩かれたものです。しかし今や「カエサルのものはカエサルに、親のものは親に」です。学校が神のふりをして子どもたちを救おうとすることも、今日では《学校がしてはならないこと》のひとつになりました。
ニーチェの著書『悦ばしき知識』の第125章にはこんな記述があるそうです。
「神は死んだ、神は死んだ。私たちが殺してしまったのだ」
(この稿、終了)