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「カエサルのものはカエサルに、親のものは親に」~究極の親ガチャ時代④

 学校にまかせておけば、子どもは何とか育つ。
 ――そうは言っても小中学校の保護者の仕事は多い。
 そして現代、そのコスパの悪さに苛立つ親たちが出て来た。
 彼らは言う。学校のことは学校で完結してほしいと、
という話。(写真:フォトAC)

【学校に任せると言ってもやるべきことは多い】 

 学校にまかせておえば、子どもは何とか育つ――親がそう思っていられる時代はけっこう長く続きました。もちろん良いことばかりではなく、昭和の初期、学校は熱心に満州開拓に子どもを送り出し、戦争にも協力しましたから、最初から「子どもの成長には親が全面的に責任を負うべきだ」という枠組みを作っておけば、ああも易々と子どもを死なせなくても済んだということもあったかもしれません。もちろん親に任せれば子どもを戦場で死なせずに済んだかと言えば、それも分からないことです。

 また、都合の良い面だけを見て「学校にまかせておえば、子どもは何とか育つ」と言っても、親が何もしなくて良かったわけではありません。昨日もお話したように、学制発布とともに一部は学費を払い、労力を払い、あるいは戸割にされた拠出金を負わされました。拠出金については、子がいなくても、自分の子が卒業しても払い続けなくてはならない永久の基金です。

 もちろん戦後は憲法に「義務教育無償」が謳われたために学費を払うことはありませんでしたが、学校に行くためには制服や制帽を用意しなくてはなりませんでしたし、給食費も払わなくてはなりません。PTAに入って会費や労力を拠出しなくてはならないし、さらには保護者懇談会を始めとする教師からの呼び出しに応えなくてはなりません。家庭訪問では家にズカズカと入り込まれる、日常的にも「宿題を見てください」「日記を書かせてください」「プールカードの健康チェックを怠りなく」等々、教師からの要望に次々と応えてなくてはならないのは、いかにも大変でした。

 そうしたことはすべて「子どものために」という美名のもとに行われてきたのです。そう言われると保護者も抵抗できませんでした。

【宿題が多いと保護者が苦労する】

「子どものために」「家庭と学校、保護者と教師は精一杯のものを出し合いましょう」という擬制に、ひびが入り始めたのは平成に入ってからです。少なくとも私はそう感じています。

 1994年(平成7年)、私は10年勤めた中学校から小学校に異動します。ごく少数ながらとんでもない子どもたちが中学校に入って来るのを見て、一度、小学校でどんな教育が行われているか見て来ようと思ったのです。それきり戻れませんでしたが。
 その初めて小学校に赴任した4月の家庭訪問で、私は奇妙な誉められ方をします。
「私、担任に先生を代わっていただいて本当に良かったと思ってるんですよ。前の先生はとにかく宿題が多くて、子どもも私も本当に大変だったのです――」
 他の教師の悪口を言いながらすり寄って来る保護者は要警戒です。同じ人は明日、私の悪口を言いながら他の教師にすり寄る人です。しかしそのとき私が身構えたのは、良く知った保護者の態度に対してではなく、「宿題が少ない先生はいい先生だ」という考え方にびっくりしたからです。

 実のところ初めての小学校で、私は宿題の出し方、内容や分量がよく分かっていなかったのです。さらに教員としては中学校育ちなので、「勉強なんて自分でやるもの、やらされてするものではない」という気持ちもあって、ずいぶん出し控えていたのです(のちに大変、後悔した)。それがなぜ褒められるのか、最初は、分からなかったのです。
 のちに知ったのは、保護者の一部が子どもに宿題をやらせることにウンザリしていること、しかも教科書の音読を聞くとか日記にひとこと書くとかいった、保護者もともにやらなくてはならないことが多すぎると感じている、ということです。宿題が多いと保護者の負担になるわけです。

 しかし私のようなボンクラ教師がむやみに宿題も出さず、そのために知識・技能の定着が遅れてもそれはしかたがないと――思ってくれているわけではないようです。それとこれとは別で、保護者に迷惑をかけずに子どもの成績を伸ばす義務が教師にはある、教師だったらその程度の技能は持っていて当然だと考えているフシも垣間見られます。

【教育における親の「賢い消費行動」】

「子どもの成績は上げてほしいけど、親として努力させられるのはかなわない」
 言葉にしてしまうと身も蓋もありませんが、要するに「より少ない支出でより大きな効果を上げたい」というコスト・パフォーマンスの問題で、保護者は明治以来100年の伝統を打ち破り、学校に対しても「消費者としての正しい行動」を取り始めたというわけなのです。

「教師はサービス業」という言い方は昭和の間じゅうはありませんでした。もちろん農林水産業でも鉱工業でもないという意味ではサービス業には違いありませんが、公教育は納税額で教育内容に差をつけたりしません。学校に高い金額を払えば質の高い教育を受けられるという訳でもありませんし、商品(教科や指導内容、学級担任・教科担任)を選ぶこともできません。商業として考えると決してサービス業ではない学校に対しても、保護者たちが「賢い消費者」としての対応をするようになった――そこに今日的な難しさがあるのです。

【学校から縁を切ろうとする保護者の出現】

 家庭訪問はプライバシーの侵害だからやめてほしいという話が出たときには戸惑いました。確かに見られたくない家であることは以前の家庭訪問で分かっていました。しかし状況が改善されたのかさらに悪化したのかは、子どもの指導を徹底する上で見ておきたいところです。家庭状況を見たからできる指導や対応・助言というものもあるのです。しかしそれは困るという。 しかし「困るから家庭訪問はやめてほしい」は良いとして、では生徒指導・生活指導はしなくていいのかというと、そうはならないので厄介です。

 やがて義務教育費無償を盾に、平然と給食費を払わない保護者が出てきたのにはしんそこ驚きました。払う能力があるにもかかわらずです。しかも給食費無償を社会運動にする気はないようで、自分が払わずに先鞭をつければいいやくらいにしか思っていな様子が見られます。

 PTAへの入会拒否が出て来た時にも最初は驚きましたが、そのころには「保護者の賢い消費行動」という見方ができるようになっていましたから、理解はできました。確かに憲法に定まった義務教育を受けるのに、PTA会費や休日の労働力を奪われるのはコスパ理論からすれば納得のできる話ではありません。現在全国各地でPTAが次々と解散していますが、それも当然の帰結。多くの保護者PTA会員は歓迎の意を表しています。
 ただし一部の元PTA会員は納得していません。PTAのT(teacher)たちです。彼らも強制加入で会費を払い、休日や夜間の労力を拠出していたのです。違うのは学習環境を整えようとした対象が自分の子か他人の子かという点、そしてPTA解散後も旧PTAの仕事(環境整備や行政への陳情等)をしなくてはならないかどうか、だけです。大きいですよね。

カエサルのものはカエサルに、親のものは親に】

「教育の場にも市場原理を働かせ、コスト意識を持つべきだ」
 そうした考え方は保護者の一部から始まり。今や教師の間にも広まろうとしています。むりもありません。保護者が「我が子のためにもがんばらない」と決めた以上、教師も「他人のお子様のためにがんばらない」姿勢は広がって行きます。
 かくして午後5時以降の保護者対応はなくなり部活動指導は拒否され、卒業アルバムや卒業文集もなくなって行きます。学校の仕組みは非常にすっきりとしきます。
カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、親のものは親に」
の時代になったのです。

(この稿、続く)