カイト・カフェ

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「真に賢い消費者たち」〜賢い教育消費者の話⑨

 教育をサービス業と考えると当然そこに市場原理は働き、市場規範に従う人々が出てくる。教育サービスの受け手はいわば“消費者”だから、「より少ない支出でより高いサービスを目指す」という消費者心理によって彼らは動かされる。
 PTA活動や家庭訪問と言ったエネルギーや時間の支出を押さえ、学力ばかりでなく「しつけ」「栄養」「人間関係改善」といった、本来は家庭で行うべきものもサービスとして要求するようなった――そういうところから今回の話は始まりました。
 しかしこれには最初から無理があったのです。なぜならサービス業にはそれ以前に「等価性」というものがあるからです。より多くを支払えばより高いサービスが受けられるという原則です。
 安宿には安宿の、高級リゾートホテルには高級リゾートなりの適正なサービスというものがあって、より高いサービスを受けたければより多くの資金をつぎ込めばいいだけです。しかし学校(特に公教育)ではそういうわけにはいきません。高額納税者の師弟がより高度な教育を受けられるとしたらそれは身分社会です。
 本論の主旨に合わせて納税額ではなく、支出を「PTA活動」や「学校行事への参加」といったエネルギーや時間と考えてもより多くを差し出した保護者の子が多くのサービスを受けられるという等価性はありません。そんな単純なものではないのです。

 私は昔、子どもたちにこんな話をしたことがあります。
「『植物にやさしく話しかけるとよく育つ』って聞いたことがありますか? 植物の鉢を二つ用意して、片方に『カワイ子ちゃん』もう片方に『ブサイクちゃん』とか名前をつけて、毎日声をかけるのです。『カワイ子ちゃん、おはよう。今日も元気でがんばろう。そこのブサイク、滅びろ!』といった具合にね。すると何日かたつうちに『カワイ子ちゃん』はすくすくと育つのに、『ブサイクちゃん』はどうしても成長が遅れるのだそうです。しかしそんなことって実際にあるのでしょうか?どう思います?」
 子どもたちの答えは全員「ノー」でした。
「そうですね。もしそれがほんとうなら、人類が農業をやってきた何千年もの間に誰かが気づいて、その方法は世界中に広がっているはずですから。でも今どき、どこの田んぼに行っても畑を見ても、作物に向かって「大好きだー」「ガンバロー」なんて言っている人はいないでしょ? 農家の人たちやらないことは、基本的に効果のないことです。
 でもしかし、もしかしたらそうなのかもしれない、という面もあります。それは何といっても手が違うからです。

 たとえば君たちがこの『カワイ子ちゃん』と『ブサイクちゃん』の実験を始めたとき、この二つをほんとう平等に扱うでしょうか? もちろん実験だから同じ条件で育てようとするでしょうが、人間のやることですから少しずつ違ってきはしないかと思うのです。
 例えば二つの鉢を窓際に置くとき知らず知らずのうちに『カワイ子ちゃん』の方を日当たりのよい位置においてしまわないか。『カワイ子ちゃん』は可愛いから思わず鉢を手にとって話しかけ、もう一度もとの位置に戻すのに無意識のうちに鉢を少し回して、『カワイ子ちゃん』の全身に陽が浴びるようにしないだろうか。あるいは可愛がって見ているうちに病気や害虫に気がついて、早めに対処することはないか。かわいそうに『ブサイクちゃん』の方は病気や害虫に気づくのが遅れるのではないか、そういうことです。
 そのそれぞれはわずかな差です。しかしそのわずかな差が毎日毎日重なると、最後には成長に決定的な差が出てしまう。そういうことはあるように思うのです」
 学校も同じです。学校の最大の価値は平等ですから教師は可能な限り子どもたちを公平に扱おうとします(それに失敗すると“エコヒイキ”とか言われてたいへんな目にあいます)。しかし人間なのです。エコヒイキなんかしませんがもしかしたらほんの少し、数百分の1ミリくらい、その対応は違ってくるのかもしれません。そしてその積み重ねは膨大なものとなります。

 玄関先の家庭訪問について、実はかなり多くの家庭が担任を座敷に招き入れることに成功しています。飛び込みのセールスマンではないのだから玄関先でなんてとても失礼で我慢できないという保護者はけっこういるのです。担任の方も、あえて玄関先でケンカしてまで座敷に上がらないという法はありません。
 娘がうまく焼けるようになったクッキーを絶対に先生に食べてもらいたいと思っている保護者や、祖母ちゃんが苦労して山で取ってきた山菜の天ぷらをぜひとも食してもらいたいと思っている家族もたくさんいます。
 とりあえず「先生」と名のつく人を粗略に扱ったのでは寝覚めが悪いという人もいくらでもいるのです。こういう人たちの思いは、「先生」の心にほんの小さな爪痕を残すかもしれません。
 しかしさらに大きな問題があります。

 それはなにより家族がそこまで大切にする「先生」というものを、子どもが重要視しないわけがないという事実です。
「この人は大切な人だ」「この人は重要な何かを持っている」「この人の前ではとりあえずかしこまるべきだ」そういう想いで教師に向かう子と「先生なんだからきちんと教えるのは当然だ」と思っている子とでは、授業に向かう姿勢が少しずつ違ってくるはずです。1年200日、義務教育9年間で1800日、およそ一万時間、これで両者が同じはずはありません。

 結局、教育をサービス業と考えたときも、最も賢い消費者はより多くの支出を行った者ということになります。「先生」を大切にし、PTA活動など可能な限り学校に協力していく、そうした高支出に耐えようという家が高サービスを受け取ることになります。
 それが世の必定と言うものです。

(この稿、終了)