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「学校にまかせておえば、子どもは何とか育つ」~究極の親ガチャ時代③

 日本の学校が家庭教育に出しゃばり、
 口出しするようになったことには、
 それなりの歴史的経緯がある。
 つまり国と親との利害の一致、
という話。(写真:フォトAC)

【必ず邑(むら)に不学の戸(こ)なく、家に不学の人なからしめん】

 私がこれまで読んできた中で最も美しい文章のひとつは「学制序文」と呼ばれるものです。
これは、明治5年(1872年)に日本政府が制定した新たな学校制度に関する方針「学制」の基本理念を表したものです。

明治政府が学制を発布して学校制度を整えたのはもちろん「国民皆兵」の下準備であり、殖産興業および富国強兵へつなげようとするものですが、「学制序文」に書かれているのは国家のための学問ではなく、個人のための学問の奨励です。
 そこには福沢諭吉が『学問ノススメ』で、
「『天は、人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』というが世の中を見れば、賢い人もいれば愚かな人もいて、貧しい者も豊かな者も、気品のある者もそうでない者もいる。その様子は雲泥の差と言ってもいいほどだが、なぜそうなったのか。その理由は明らかであって、学ぶと学ばざるとの違いなのだ」
と言ったのとほぼ同じ内容が書かれていて、学問の重要性が縷々訴えられているのです。
「こういうわけで、人たるものは学問をしなければならないのである」

 しかし世の中には間違った学びや意味のない学習もある。そこで、
「学問を学ぶためには、当然その趣旨を誤ってはならない。このために、このたび文部省で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので」
――次の部分がいいのです。だから書き下し文を写しますが、
一般の人民 華士族卒農工商及び婦女子 必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す。人の父兄たる者、宜しくこの意を体認し、その愛育の情を厚くし、その子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり。
*邑…むら、戸…こ、期す…きす、宜しく…よろしく

 明治政府の学校教育に対する気概と気合、未来への決意がヒシヒシと伝わってくるような文章です。

【今も学校は地域が支えている】

 ところがこんな大層な宣言をしたにもかかわらず、金のない政府は学校教育の費用を受益者負担、つまり児童の授業料で賄おうと考えたのです。もちろんうまくいくはずがありません。食うや食わずの家などざらにある時代ですから――。現実を考えずに言いたいことを言ってそれから梯子を外すやり方は、当時の文部省も現在の文科省も同じです。

 政府に言われた以上学校は創らなければならない、金は出してもらえない――困った地方政府は寄付金と学区内の家々に割り振った負担金によって運営費を賄おうとします。明治6年の公学費統計によると文部省からの補助金は全体のわずか12%、学区内集金が43%、その他寄付金が19%、授業料収入は約6%だったと言います
学制における小学校の制度

 私が、
「卒業式くらいは地域の人々を意識し、感謝の気持ちを込めて、立派に育った自分の姿を見てもらえ」
と強く言うのはそのためです。
 今も全国に文化財として残る明治時代の小学校の校舎の多くは、いずれも地域に人々の喜捨と労力によって作られたものです。ときには材木を持ち寄ってみんなで建てたのです。それから150年も経って、しかし現在の学校も、公立については地域の人々の血税によって運営されています。子のいない人も、孫のいない人も、教育費を払ってくれているのです。

【学校にまかせておえば、子どもは何とか育つ】

 18世紀のアメリカで、最も多く殺された人の職業は、子どもを学校に連れ出そうとした教師たちだったと言われます。ロシアでも19世紀中ごろ、ナロードニキと呼ばれる若い運動家たちが農村に下って学校を建て、多くが農民の反感を買って殺されたり追放されたりしています。ともに重要な働き手である子どもを農家から奪おうとしたからです。しかし19世紀の日本は、そういうことにはなりませんでした。

 子守をさせても役立つ貴重な労働力を失うことにはやはり抵抗はあったみたいですが、それでも人々は子どもを学校に送り出しました――もちろんそこには、明治の日本人が「貧困から抜け出す唯一の道は学問だ」という「学問ノススメ」や「学制序文」が主張する内容を基本的に受け入れたという事情があります。しかしそれ以上に重要な要素として、学校が子どもを丸ごと引き受けた、ということもありました。

 そもそも江戸の寺子屋時代から、日本には初等教育の段階で「道徳」を学び始める伝統があり、論語を中心に相当な時間が道徳教育に費やされてきたのです。明治になって儒教が禁じられるようになっても伝統は残され、早くも1869年(明治2年)の小学校設置の段階から「修身」は学ぶべき内容のひとつに入っていました。さらに修身は学生発布の1872年(明治5年)には正式科目として学校に置かれ、1890年(明治23年)の教育勅語発布を経て1945年(昭和20年)の敗戦まで存在していました。軍国主義との関係で何かと悪く言われる「修身」ですが、近代の学校教育の初めから「基本的な躾けや道徳教育は学校が担う」と明らかにしたことで、人々は安心して子どもを学校に預けることができたのです。
 女子だけでしたが1993年(明治26年)には裁縫の授業も行われるようになり、ますます学校は家庭教育の一端を担うようになります。学校にまかせておえば子どもは何とか育つ、だから学校の言うことはきいておいた方がいい――そう思っていられる時代が来たのです。
(この稿、続く)