プール開放や組体操、遠足などは、何のためにやっているのか
世間の人たちはともかく、中央教育審議会の委員は知っていてほしい
学校の伝統を安易に削ると教員の負担はかえって大きくなるのだ
もちろん問題が起こっても学校の責任は問わないというなら別だが
というお話 (ミュシャ「スラブ叙事詩《スラブ式典礼の導入》」)
教育研究家、学校業務改善アドバイザー、中教審委員の妹尾昌俊さんはYahooニュース2019.12.28「【学校の働き方改革のゆくえ】残業削減に成功している学校は何がちがうのか」で、大胆な業務削減を断行した静岡県の小学校について、次のように書いておられます。
夏休み中のプールも熱中症などのリスクも高くなっているし、やめて、学期中の体育の時間での練習とした。運動会の組体操は、怪我のリスクが高いうえ、練習にも多大な時間を要していたことから、ダンスなど簡易なものにした。
文章にしてしまえばこれだけのことです。しかしたった3行で始末されてしまった二つの業務、それで失ったものは少なくありません。
【プール開放は心のオアシス、組体操には重い意味がある】
例えば夏休みのプール開放。妹尾さんはこれを子どもたちの泳力強化の面でしか考えていませんが、それがすべてではありません。いやむしろそれは付随的な目的です。
真の目的は教育の家庭向きサービス、地域サービスです。
お金があって夏休み中、塾だのスイミングスクールだのプログラミング教室だの次々と行事の用意できる家はいいのです。そういうものが一切用意できない家、関心のない家の子に対して、せめて一日に一度は家を出て目標のある活動をさせ、メリハリをつけさせようというのがプール開放なのです。
家庭ばかりでなく、学童保育に出ている子たちも学校のプール開放でもない限りあの狭い空間に一日中缶詰で窒息状態です。それが何日も何日も続いて行く――可哀そうじゃありませんか。心痛みません?
プール当番自体は大した仕事ではありません(PTAの見回り当番は保護者の方にとって負担でしょうが)。一人か二人が水質検査などの準備をすればいいだけで、そもそも夏休み中の勤務の勤務ですから、縮小したところで過重労働の削減にはならないのです。苦しいのは学期中の仕事です。
これで「夏休みのプール指導をなくしたのだから、忙しいだのなんのと文句を言うな」と言われたらかないません。
さらに運動会の組体操については、昨今の重大事故を考えると縮小は仕方ないにしても、なくすならそれなりの覚悟が必要です。あれは持久力を高めると同時に、非常に高い道徳性を養おうという試みだからです。
kite-cafe.hatenablog.com 思えば組体操が保護者の間でも特に人気が高かったのは、そこに大きな子どもの成長が見て取れたからです。その組体操を廃止する以上、代わるものがなければならない――多くの教員はそのように考えます。
「あの組体操のとき、オマエは最後まで頑張れたじゃないか」
「みんなが一つになって頑張ることが、あんなに素晴らしいって、みんなで一緒に体験したよね」
そう言って子どもを励ますことができなくなったら別のなにかで補わなければならない、それが教師の考え方です。
【遠足は、やめてもいい行事なのか】
遠足はどうでしょう?
遠足はそれを単なる思い出づくり、重苦しい学校生活の中の一瞬の気晴らしとしか考えない人にとっては、あろうとなかろうとどうでもいい行事です。しかし人間関係づくりの一環と考える人たちにとっては重大な問題です。
学校教育を大きな枠でとらえる教師にとって、遠足は修学旅行に向かう一里塚です。遠足や社会見学を繰り返す中で、係が分担の仕事を果たすことや相互の協力、集団行動のルール遵守の受容性を学び、計画性や遂行性を高めていくわけです。
修学旅行はまさに学を修める最終チェックで、小中それぞれの最終学年になったころには、独力で計画を立て、遂行することができなくてはならないのです。
こうして身についた力を、私たちは社会性と呼んでいます。いきなり修学旅行のような大行事に向かわせてもうまく行くはずがありません。おママゴトみたいな小学校1年生の遠足の係活動から始めて、順次、能力を高めていくのです。
ですから「先生が大変なので遠足は止めました」では済まないのです。
ところで妹尾氏は、
業務の多くは、文科省は細かく学校に指示していないし、義務づけてもいない。
と言いますが、遠足は学習指導要領にも位置付けられた内容です。
自然の中での集団宿泊活動などの平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること。
(小学校学習指導要領 第6章「特別活動」―3 内容の取扱い―(学校行事)―2内容―(4) 遠足・集団宿泊的行事)
これもやめていいなら、私はむしろ小学校英語やプログラミング学習を削りたいと思います。
【学校が留守番電話なら教師は自分の番号を公開する、家庭訪問がなくなったら休日に住宅確認をしなくてはならない】
ついでですので昨日引用した、
学校で夜間・早朝に留守番電話対応とする
家庭訪問にかえて、面談とする。通知表の所見欄は簡素にして、面談で説明する
についても言っておきます。
もし私が中学校の担任教師で学校が夜間(5時以降か?)留守番電話対応になったら、やむなく自分の携帯番号を保護者に知らせます。そのために24時間拘束されるようになるにしても、「子どもがいじめられた」「息子が万引きした」「明日、喧嘩があるらしい」「9時過ぎだというのに娘が帰ってこない」といった連絡が、翌朝まで入らないという恐怖に耐えられないからです。
また家庭訪問をやめたために生徒の家が分からず、いざという時に駆けつけることができないのも怖いです。いったん家庭訪問をして家の中を見ればそれだけで分かる生活状況について、何も知らないというのも不安です。
私だったら、仕方がないから4月の早い時期に休日を使って、生徒の家を一軒一軒確認して回るくらいのことはしておくでしょう。中にこそ入りませんが。
それに比べたら通知票を書くなんて大したことはありませんし、そもそも家庭訪問を面談に代えて楽になるのは部屋の掃除をしなくて済む親の方で、保護者が学校に来るとなれば教師の方が教室整美をしなくてなりませんし用意する資料だって似たような量です。
【学校が責任を問われないならそれもいい】
学校は近代教育だけでも150年の歴史をもつ、磨き上げられた組織です。ですからそこで行われている活動の大半は重い意味を持っていて安易に動かせないのです。
もちろん学校のあり方を根本から変更する――例えば児童生徒の非行について学校の責任を問わない、不登校やいじめ問題への対応も他の組織に任せる、道徳教育・人間教育については欧米並みに学校の仕事としないというなら別です。
そうなったら私たちは余裕をもって遠足や運動会から手を引き、家庭訪問や時間外指導、時間外の連絡といった一切と縁を切ることができるでしょう。しかし仕事は減らせ、時間はかけるな、しかしいじめや不登校の問題にはきちんと対処しろ、非行は許すな、子どもの可能性を十分に伸ばし、確かな学力と生きる力をつけて卒業させろというなら、普通の教師はついていけません。
失敗や不祥事の責任はだれが取ってくれるのでしょうか。
(この稿、続く)