カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「アメリカ人は今もアメリカン・コーヒーを飲んでいるのか」~新しい時代が来るのかもしれない③

 フランス人は人の目を気にしない、
 イタリア人は景観を大切にする、
 アメリカ人は薄味のコーヒーしか飲まない。
 どれもこれも薄っぺらな思い込みかもしれない、
という話。

(写真:フォトAC)

懐疑主義ステレオタイプ

 物事の存在や価値などを信じず、世の中のすべての事象は不確かで断定的に語ることはできないという立場・考え方を懐疑主義といいます。しかし自分の周辺にすべてに疑いを持ち続けていたら(いま手にしている鍋は本当に存在しているのだろうか?)とてもではありませんが生きていけませんから、私たちは多くのものごとを「これはこういうものだ」と極めつけて生きています。

 こうした極めつけは基本的には妥当なものばかりですが、特定の集団や個人に対して、固定的で一般化されたイメージを当てはめ、誤解や偏見を生み出すことがあり、これをステレオタイプ化といいます。例えば特定の国籍や性別、職業に対して「この人たちはこういう人だ」と極めつけることです。
 昨日まで私の抱いていた「フランス人は個人主義で他人の行動や人の目を気にしない」もステレオタイプ化された認識であり、新たな知見「フランス人はひとり飯をしない」も、あまりにも固定的に考えるとステレオタイプ化した認識となりかねません。やはり最終的には自分の目で見て、自分の肌で感じて来なくてはならないことでしょう。

【イタリアの街角で】

 私は子どものころテレビで、
「ヨーロッパ人は景観を大切にし、古い街並みを残すことにたいへんな力を注いでいる。景観を守るために膨大な予算をかけ、電線もすべて地中に埋設している」
と聞いてとても感心したことがあります。翻って当時の日本の現状を見ると、東京の都心でさえ無粋な電線が張り巡らされていて、ほんとうに恥ずかしい思いをさせられたのです。

 それから数十年。人生も終盤に差し掛かって定年退職を機にイタリア旅行に出かけたら、電線の地下埋設が私の聞いたのとはまったく異なることに一発で気づきました。大都市ローマでさえ一歩裏通りにはいれば石畳の小路ばかり。自家用車一台がやっと通れるような狭い道がやたらくねくねと繋がっているのです。こんな街並みでどこに電信柱を立てればいいのか。
 建物のほとんどは重厚な石造りですから建て替えもままならない。大切にする気がなくても古い建築物は至るところで残ってしまいます。コロセウムもローマの大浴場も、たぶんそんなふうに残されてきたのでしょう。
エジプト人はものを大切にする民族なのでピラミッドは残った」
と言われればすぐに、
「それはないだろう」
と反応できるのに、イタリア人だとそうならないのは、やはりそこにステレオタイプ化されたイタリア人の印象があったからでしょう。単純なものです。

アメリカ人は今もアメリカン・コーヒーを飲んでいるのか】

 ステレオタイプ化には最初から間違っていた場合もあれば、かつてはある程度の妥当性があったものの今は違ってきている、そういった場合もありそうです。私が最近引っかかっているのは、
「今でもアメリカ人はアメリカン・コーヒーを飲んでいるのか」
という疑問です。
 アメリカ人(アメリカン)だからアメリカン・コーヒーは飲んでいるに決まっているというダジャレ落ちではありません。あの出がらしみたいな薄いコーヒーを、アメリカ人が一日に何杯も飲んでいるという話は知っていたのですが、当たり前すぎてもう何十年ものあいだ意識のレベルまで上がってくることがなかったのです。ところがふと気づいたら、いつの間にか日本の喫茶店市場にスターバックスタリーズという二大資本が君臨していて、そのいずれもがアメリカ資本なのです。もちろん両社とも薄口コーヒー専門店として日本に上陸してきたわけではありません。ヨーロッパ風の味の濃いコーヒーを提供する普通のコーヒー・チェーンとして、合衆国内で育っていたのです。ということはかなりの数のアメリカ人が、ヨーロピアン・スタイルのコーヒーを飲むようになっているということです。
 そこで出てきた疑問が先ほどの、
「今でもアメリカ人はアメリカン・コーヒーを飲んでいるのか」
なのです。
 現在はこのタイプの話は、疑問が浮かんだ直後に簡単に解決できます。AIに訊けばいいだけのことです。
(Copilotより)アメリカでは、薄口のコーヒー(アメリカンコーヒー)が依然として人気があります。アメリカンコーヒーは浅煎りの豆を使い、軽い味わいが特徴です。ただし、最近では多様な焙煎や淹れ方が楽しまれており、エスプレッソやスペシャリティコーヒーも人気が高まっています。以下、参考サイト。


【私たちの偏見】

 すでに時代は変わっているのに昔と同じ視点で見ているため、ステレオタイプ化した偏見ないしは誤解と同じになってしまっている――そうしたものが私たち年寄りはたくさんあります。
 かつて輝いていたものが光を失い、紙くず同然だったものが新たな価値として輝き始める。無意味だったものに意味が見いだされ、有益だったものが無益あるいは負担になる――最近、私に大きく認識を揺り動かされたものがありました。明日はそれについて話します。