金がかからない、世間から文句を言われない――、
行政の下す判断は、最初からその2点に縛られている。
だから不必要な小学校英語やプログラミングは残り、
必要な運動会や修学旅行は縮小される、
という話。(写真:フォトAC)
【寓話「バッタの実験」】
先月の中頃、「ムカデのジレンマ」という寓話に関連して、私には出典や題名が分からないまま、しかし大切にしている小話や寓話がある、というお話をしたことがあります*1。その同じ流れなのですが、次の寓話も、題名も出典も分からず困っている物語です。
『昔、ある昆虫学者がバッタをしつけて、手を叩くとジャンプするようにした。そうしておいて、残酷なことに、足をむしり取ってもジャンプをするかを調べることにしたのだ。
6本の足のうち二本を取って手を叩くと、バッタはジャンプした。さらに二本取って手を叩くと、可愛そうにバッタは残った二本の足で必死にジャンプしようとした。
最後に全部の足を取って手を叩いたが、むろんバッタはジャンプしなかった。そこで昆虫学者は論文にこう書いた。
「バッタはすべての足を取り去ると、耳が聞こえなくなる」』
この物語の出自を生成AIのCopilotに訊くと、次のような答えが返ってきます。
「この物語は、特定の題名や著者に関連する情報は見つかりませんでしたが、これはよく知られた寓話の一つで、科学的な実験の誤解や皮肉を表現するために使われることがあります。特に、観察結果を誤って解釈することの危険性を示す例として引用されることが多いです」
題名や著者が分からないと聞いて少しホッとしています。引用するのにいちいち断りを入れる必要がないからです。ただしこのよくできた便利な物語には大きな欠点があって、実はバッタの中には足に聴覚器官がついていて「足を取ると聞こえなくなる」が必ずしも間違いではないということです。世の中、何でも上手く説明できるとは限りません。
この寓話の教訓は、要するに「どんな厳しい実験・観察も、判断を誤るととんでもないことになる」という当たり前のことです。ところがこの当たり前が案外、当たり前ではないのです。
*1:(2024.10.23「思い出せないある哲学者の物語、生成AIはどう答えるか」~生成AIと仲良くできるようになってきた話③)
【金のかかる結論は、最初から出ないしくみの科学的調査】
例えば今から20年近く前、不登校やいじめ問題が一向に改善しないのに学力の国際比較だけが下がったことに業を煮やした政府は、日本の教育はすでに死んだと結論して「教育再生国民会議」をついくるとともに教員免許更新制度をつくり、すべての教員が10年ごとに免許を更新するようにしました。また、指導要領改訂に合わせて「特別の教科『道徳』」も創設し、必修を強く指示して教科書も作成したのです。不登校やいじめの原因の一部が、教員の質の低下と道徳教育の不足にあると考えたからです*2。 その分析は正しかったのでしょうか?
大学で何年もかけて勉強をし、やっと手に入れた教員免許が、わずか1カ月そこそこで取得できる運転免許と同じ扱いを受けるという屈辱に耐え、私たちは自腹で研修を受けました。しかしそれで不登校やいじめがどれほど減ったでしょう? 「特別の教科『道徳』」は今も続いていますが、いじめ防止に多少の効果でもあったのでしょうか。
政府が教師の質を問題としていたその時期に、学校の教育力は落ちたと、政府と同じように考えるようなひとは現場にはひとりもいませんでした。平成不況のために30倍近くにも跳ね上がった採用倍率を勝ち抜いてきた教師たちは、明らかに優秀で、仕事の手も抜かなかったからです。時数を守ることにも厳格で、指導も丁寧でした。
私たち昭和バブルの教師たちが竹刀やコンジョウ棒で重武装し、高圧的な態度でようやく制御していた教室を、彼らは穏やかな言葉だけでコントロールしようとし始めたのです。どちらが偉いか、どちらが優秀なのかは誰の目にも明らかでした。
しかしそれほど優秀な教師が続々と入って来たにも関わらず、教員の質は低下したと嘆く声は、学校外にたくさんありました。ずっとありました。今もあって採用資格を大学院修了まで引き上げよという声は絶えたことがありません。院卒の誰が教師になんかなるものかといった常識的な声も届かないほどです。
この時期に学校問題の原因を、細かなところまで見てやれない「教師の多忙」や「教師の疲弊」に帰していたら、今とはずいぶん違った状況になっていたでしょう。しかし政府が教育内容の削減や教員増加に直結するような判断は、最初からするはずはなかったのです。
*2:残りの原因は法整備の不備と考えられ、「いじめ対策基本法」ができました。
【教職多忙の主犯は追及されない】
現在の日本の学校教育について、最大の問題のひとつが教師不足であることは間違いありません。労働条件の厳しさが教職忌避の主因なのか、そもそも日本全体の人手不足の枠内の話なのかはよく分かりませんが、現実問題として全国で1350校1701人もの教師不足が発生している*3となると由々しき問題です。
直近のことで言いますと、教職調整額を13%に上げるか残業代を出すかという話になっていますが、実際は金の問題ではなく、仕事内容を減らすか教員を増やすかが主題となるべき問題です。しかしただでも教員が不足し、雇うための資金も不十分な状態での増員は難しく、話は教育内容の削減に向かうしかなくなります。そこで考えられたのが部活動の地域への移行、運動会や体育祭、文化祭や修学旅行といった学校行事の縮小です。
部活動については課題も多いので別に考えるとしても、縮小されるのが伝統も定評もある運動会や文化祭であって、小学校英語やプログラミング、総合的な学習の時間、キャリア教育や環境教育・ICTといった追加教育でないことを、私は理解できません。
後者はいずれも平成以降に新たに加えられた学習内容で「小学校から週1時間の英語を学習すれば日本人の英語力が高まる」「総合的な学習の時間が生きる力をつける」といった科学的証拠もないのに、一方的に担任に任された仕事です。しかもそもそも素養もなければ修行も積んでこなかった英語やプログラミング、学習教材そのものを発掘するところから始める総合的な学習の時間、だれも見ない書類(キャリア・パスポート)を作成するキャリア教育、これらこそ教職多忙の主犯なのに、だれもここにメスを入れようとしませんでした。
*3:【2024年版】教員不足の現状と解決策 教育専門メディアが解説
【運動会や修学旅行は学んだことの実地試験だ】
最近、「親や地域のたちに見せるのが目的の運動会ならやめた方がいい」とか「練習をしなければできないような入場行進ならすべきではない」といった内容の新聞記事を読みましたが、こうしたことの堂々と言える時代がきたことに、しんそこ驚いています。
あちこちの単語を書き換えて、
「ひとに見せるための表現運動(ダンスなど)ならやめた方がいい」
「誰かに聞いてもらうための合唱だったらやるべきではない」
「人を集めるのが目的の販売促進イベントならすべきではない」
「練習をしなければ出場できないようなオリンピックはやめよう」
運動会や体育祭は「目的」ではなく、児童の運動能力や表現力を高める「手段」です。文化祭も修学旅行も、学校で学んだことを社会の中で試してみて、力の付いた部分、足りない部分を明らかにする試験のような活動なのです。
来場者のことを十分に考えた会場づくり、展示はできたか、そのための計画はどうだったのか。会場内はいつも清潔に保てたか、来場者には親切にできたか、受け応えは? 修学旅行に行った先々の美観は保てたか、他の観光客に失礼はなかったか、宿所はきれいに保てたか、風呂や食堂はきちんと使えたか、朝食バイキングでは栄養バランスを考えた品揃えができたか、みんなに親切にできたか、協力はできたか、静寂は保てたか・・・、それらを学校行事で確認し、足りなければ改めてつけなおさなくてはなりません。確認しなくてはならない力は、今日の日本人が世界から賞賛されている力です。それを疎かにしておいて、
「ああ日本人の英語力はすばらしい」
「簡単なものなら国民全員がプログラミングができるなんて、何と素敵な国なんだ!」
――そんな時代が来るのでしょうか。来た方がいいのでしょうか?
(この稿、終了)