学校の「特別活動」は例外的な活動ではない。
日本の学校教育の根幹にある最も大きな柱だ。
しかしそれを見る立場はさまざま。
撲滅すべきと言う人と、これだけは残せという人と。
という話。(写真:フォトAC)
【「特別活動」という特別なもの】
日本の学校に特徴的な「特別活動」というのは、「特別な活動」といった一般名詞ではなく、学習指導要領のなかに定められた「教科教育」「道徳教育」と並ぶ大きな教育の柱を指す固有名詞です。その中身は中学校の場合「学級活動」「生徒会活動」「学校行事」の三つ、小学校ではこれに「クラブ活動」が加わって四つとなります。
「学級活動」は学級として行う活動のほぼすべて――係活動・当番活動・学級会・学級レクリエーション等々。
「生徒会活動」には学校行事へ協力や、社会参加が含まれ、
「学校行事」は「(1)儀式的行事」「(2)文化的行事」「(3)健康安全・体育的行事」「(4)旅行・集団宿泊的行事」「(5)勤労生産・奉仕的行事」の五つに分類されます。
ひとことで言えば、学校の「教科教育」「道徳教育」以外のすべての活動が含まれ、クラスの話し合いも班決めも、給食当番も清掃当番も日直も、地域ボランティアも地域行事への参加も、始業式・終業式・入学式・卒業式、避難訓練・交通安全教室、文化祭・音楽会、運動会・体育祭、遠足・社会見学・修学旅行、それら全部が「特別活動」の内容なのです。
キャリア教育・環境教育・薬物乱用防止教育・コンピュータリテラシー教育など、いわゆる「追加教育」もこの「特別活動」の枠に入ってきます。とんでもない量の内容です。
【「特別活動」は何のためにあるのか】
その「特別活動」は何のためにあるのかというと、学習指導要領にはこんなふうに表現されています。
(目標)
「集団や社会の形成者としての見方・考え方を働かせ,様々な集団活動に自主的,実践的に取り組み,互いのよさや可能性を発揮しながら集団や自己の生活上の課題を解決することを通して,次のとおり資質・能力を育成することを目指す」
として、
- 多様な人々と協働することの意義を理解して、行動の仕方を身につける。
- 話し合いおよび意思決定ができるようにする。
- 実践的な活動を通して、社会生活および人間関係をより良くするとともに、生き方を考え、自己実現を図ろうとの態度を養う。
の三つを挙げています*1。
何をしようとしているか分かりますか?
実は「特別活動」は人間関係の学びである「道徳」の、実地訓練の場なのです。
自動車教習を例にとれば、教室で学ぶ「学科教習」が「特別の教科 道徳」、コースに出て実際に車を走らせて学ぶ「技能教習」が「特別活動」ということになります。
もちろん両方とも大切ですが、教科書で運転の仕方を学べば誰でも運転ができるようになるわけではないように、「道徳」の時間に資料を読んで学べば道徳的な活動ができるかというと、そうではないのです。理解すればできるようになるというなら、体育学科の研究者は大谷翔平以上の野球選手でなくてはなりませんし、オリンピックも研究者の大集会になってしまいます。でも実際はそうなっていないでしょ?
だから練習が必要になります。人間は学んでも訓練しなくてはできるようにならないのです。
ひとには親切にし、治安を守り、身の回りを清潔に保つともに公共の場を汚さない。危機に際して全員の命を守るためには譲り合うことが大切だ。同様に自分だけが豊かになろうとすれば社会全体は貧しくなってしまう。集団や社会の中では役割というものがあり、それぞれが役割を果たすとともに、他の人もきちんとやっていると信頼できる、そうした社会こそが望ましい社会で、それは達成できる目標だ――。
こうして書き始めると、私はいくらでも書き続けることができるのですが、日本の学校は第二次大戦後だけでも80年近くもの間、営々とそうした訓練を続けてきたのです。これで道徳的行動ができないはずがありません。道徳的な能力に差が出てしまうのは教科学習と同じですが、それでも日本人の道徳的平均値はかなり高い。学校の「特別活動」が育んできたものは、計り知れないのです。
【修学旅行は思い出づくりではない。運動会は地域パフォーマンスではない】
その特別活動――すでに学級活動と生徒会活動はギリギリまで絞られて、今は学校行事の縮小ないしは削減が視野に入って来ています。
もちろん、「修学旅行は思い出づくり」「運動会は地域へのパフォーマンス」「清掃活動は金のない自治体の学校管理の肩代わり」「卒業式や始業式の校長や来賓の話は我慢比べ」「文化祭や遠足はお楽しみ会」――そんなふうに思っている人にとっては、「特別活動」は縮小すべき、できればなくなってほしい内容かもしれません。
しかし「修学旅行は将来、企業人・職業人として計画立案をし、共通理解を計るとともに意欲を高め、分業と協業によって目標を遂行するための、最高の訓練の場だ」と考える人にとっては、旅行行事の縮小は穏やかではありません。
オリンピックがそうであるように、運動会もそれを目標として技能を高めようとする動機付けのために置かれているものであって、決して保護者・地域向けのサービスあるいはパフォーマンスではない*2。おまけに高学年は係活動の練習もできる――そう考える人にとって、半日開催は教育機会の削減でしかありませんし、軍国主義の誹りは中傷誹謗以外の何物でもありません。
いま、教員の働き方改革の波にのって、文科省からも、教員の一部からも学校行事の精選(という名の削減)が叫ばれるようになっています。教員の労働状況がいかに酷いか、つとに知れ渡ってきたため保護者も地域もあまり文句は言いませんが、揺り戻しも始まっています。
海外が「特別活動」を高く評価していることを扱った映画が上映され、マスメディアも特別活動」を再評価し始めています。SNSでもそうした意見が増え始め、しばらくしたらメディアとともに昔の「学校批判」に舵を戻そうとするかもしれません。教師批判の大合唱、
「教師が楽をするために、子どもの情操を犠牲にするのか!」
さて、私たちはどうしたらよいのでしょう。
(この稿、次回最終)
*1:正確には以下の通り。
- 多様な他者と協働する様々な集団活動の意義や活動を行う上で必要となることについて理解し,行動の仕方を身に付けるようにする。
- 集団や自己の生活,人間関係の課題を見いだし,解決するために話し合い,合意形成を図ったり,意思決定したりすることができるようにする。
- 自主的,実践的な集団活動を通して身に付けたことを生かして,集団や社会における生活及び人間関係をよりよく形成するとともに,人間としての生き方についての考えを深め,自己実現を図ろうとする態度を養う。
*2:ただし表現運動《ダンスなど》はもちろん別の意味でパフォーマンスではあります。