カイト・カフェ

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「日本人が日本人になるための練習」~文化的グローバル化の話④

 道徳の神髄は“正義”よりも“美しいかどうか”だ。
 街の道路にゴミが落ちていないにも、群衆の静けさも、
 皆、それが美しく心地よいから選ばれた。
 選ばれて、幼稚園や学校で一生懸命、練習したのだ。
という話。
(写真:フォトAC)

【“名前を言いたくないあの人”の話】

 予想されたことですが極めて不愉快な朝です。これから4年間ほぼ毎日、ニュースのたびにあの顔を見なくてはならないのですから、今日一日くらいはテレビや新聞、ネットニュースを見ないようにしていてもいいでしょう(できるかな?)。

 私が(今は名前も口にしたくない)“あの男”が嫌なのは、彼が美しくないからです。顔ではありません。顔や体形だけだったら、すぐにもマンガに描けそうなあの容姿はむしろ好きです。楽しくていい。しかしその生き方は決して美しいとは言えません。

 人を陥れるためには平気でウソをつき、都合がいいなら不確かな情報も湯水のように流す。汚い言葉で人を罵り、中傷し、責められると言ったことも「言っていない」とはぐらかし、いくらでも不誠実で鷹揚でいられる。嫌味な金満家で財を見せびらかし、女性や貧しい者を見下し、品性に劣り、野卑、卑怯――。
 そうしたことの一切は、私たちは「やってはいけません」と教えられてきたことで、大人になってからは「やってはいけません」と子どもたちに教えてきたことです。

【道徳の神髄=美しいかどうか】

「道徳」はしばしば“正義”の問題と思われがちですが、実際は半ば以上が“美しいかどうか”の問題です。
 屋外でツバを吐いたり食べ物のカスやゴミを棄てたりしてはいけないのは、もうこれは明らかに“美しさ”を大切にしようとするものですし、「食事中に足を組んではいけません」「肘をついてはいけません」「大きな声で話をして、食べ物が入っている口の中を見せるのは恥ずかしいことです」「食べているものが飛び出してきたらやはりいやでしょ?」も、「自然を守りましょう」も「伝統を守りましょう」も、「困っている人がいたら助けましょう」も、すべてそれが美しい行為だから挙げられているのです。

 財産があってもひけらかしてはいけません。自分が幸せであるときもそれを見せびらかすのは醜い行為です。ひとを悪く言ったり見下したり、罵ったり、妬んだりするのも、全部醜い行いで、だから人間としてやってはいけないのです。

【何が美しいかは経験で身に着けるしかない】

 何が美しくて何が醜いのかよく分からない?
 まったくその通りです。しかし何が美しくて何が醜いのかを、言葉で説明することはできないのです。今が盛りの紅葉だって、ピカソの絵だって、モーツァルトの音楽だって、それが美しいことを言葉で説明し、納得を得るなんてできることではないでしょ? 
 そもそもそれらを最初から“美しい”と感じることのできる人なんて、たぶんたくさんはいないはずです。子どものころの私なんて、赤と黄と茶色に染まった秋の山々は“ウンコ色”にしか見えませんでしたし、モーツァルトは悪くはないが過大評価された音楽家ピカソに至っては大人なのに小学生みたいな絵を描いて、それで儲けた詐欺師みたいな画家だと思っていたくらいです。
 それがいちおう理解できるまでには長い年月と経験と、多少の勉強が必要でした。それと同じです。
 
 日本の子どもたちは学校生活の中で、長い月日と経験と「特別の教科道徳」などの時間に行う多少の勉強を通して、日本人としての道徳、立ち振る舞いを覚え、自然にそれができるようになるまで何度でも繰り返し練習するのです。
 どんなふうに?

【日本人が日本人になるための練習】

 校長先生の話はつまらないことも多いですが、きちんと聞いてればそこに深い含蓄のあることも少なくないのです。卒業式の来賓の話や成人式の祝辞、きちんと聞きもしないのに「どうせつまらない」と最初から見切ってしまうのは失礼な上にもったいない。ひとの話を聞く練習は、学校にいる間のすべての時間をつかって行いましょう。先生の話も友だちの話も、先輩の話も後輩の話も、同じようにしっかり聞くのです。
 必要に応じて質問などもできるといいのですが、最初の内はそこまで望みません。一定の時間、口を閉じて、同じ姿勢で、注意力が途切れないようにできれば、とりあえずは良し。それから先のことは、段階のあがったところでまた考えます。

 並ぶことと待つことは集団生活の基礎でしょ?。特に災害の多い日本の国民は、並ぶことと待つこと、そして順番を守ることが結局、迅速な避難に繋がることと身をもって覚えなくてはなりません。常に全体に気を配って皆で逃げることこそ、早く、全員が助かる唯一の道なのです。教室移動のとき、給食の準備のとき、全校朝会のために体育館へ向かう時、いちいち並んでいくのにはそういう意味もあるのです。

 さらに進んで、当番や係の仕事に勤しみなさい。普段の生活の中では、家庭においても職場においても、構成員の一人ひとりがきちんと役割を果たしていると信じられるからこの国の社会は回っているのです。私たちの国では、会社が従業員を監視するカメラなんてほとんどないでしょ? そうしたことにコストをかけずに済む国はそれほど多くないのですよ。
 そうした“監視されずとも一人ひとりが責任を果たす社会”なら、災害に遭って避難所生活が始まっても、案外しぶとくやって行けるものです。大災害のあった土地の避難所の様子をようく観察してごらんなさい。そこには数日以内に出来上がったボランティアの自助組織が必ずあります。避難者一人ひとりが自主的に自分の責任を果たし始める――日本人はそうしたことが得意なのです。
 なにしろ保育園のころから、年齢にふさわしいやり方で、自主的活動と責任分担の練習を繰り返しやってきたのですから。
(この稿、続く)