カイト・カフェ

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「戦争の終わらせ方と傍観の罪」~ウクライナ戦争を巡る断想①

ウクライナ戦争が始まって8カ月、まだまだ終わりが見えてこない。
しかしどんな事象にも終わりは来る。
あとは何を予見し、
自分はどう生きるのかという問題だけだ。
という話。(写真:フォトAC)

ウクライナ戦争はどのように終わるのだろう】

 2月24日にロシアがウクライナに侵攻して間もなく8カ月になります。最近はウクライナの攻勢が伝えられることが多くなっていますが、だからと言ってロシア軍が総崩れになって自国に逃げ帰ると言った雰囲気でもなく、ジリジリと苛立つような日々が続いています。
 
 望ましいことではありませんが当初のロシアのもくろみ通り、ロシアが1週間でキーウを制圧して大統領を挿げ替えていたら、あるいはほとんどありえないことですが最初の段階でウクライナが一気にロシア軍を跳ね返していたら、事態はもっと分かりやすいものになっていたはずです。
 しかし今となっては着地点がどこになるのか、全く見当がつきません。

【しかし着地点は見えてくる】

 ロシアが失った地域を制圧し直してもそこで戦線が止まるはずもなく、かといってウクライナがクリミアまで取り戻してロシアが黙って引き下がる可能性もありません。プーチン大統領が暗殺されてもとってかわる新しいリーダーの選択の幅は、そんなに広いわけではないでしょう。
 米ロあるいはそれに加えてEUの強国がみんなで相談して休戦ラインを決めるということも、もはや現実的な選択ではなくなっています。
 ではどんな終わらせ方があるのか。

 ヒントとなる事例がないわけではありません。
 日清日露戦争で日本が勝ったというのはどういうことだったのか、第一次世界大戦はどのように終結したのか、第二次世界大戦でドイツや日本はどのような負け方をしたのか、朝鮮戦争はどのようなかたちで停止したか、米軍はベトナムでどのように敗れたか、ロシア軍やアメリカ軍はどんなふうにアフガンニスタンを後にすることになったのか――。
 それらの中で今のウクライナに最も近いものは何か、そう考えると見えてくるものもあります。
 
 日本にとっては遠い外国の話ですが、力によって領土を拡張するというやり方が21世紀でも通用するとなると、この先も同じ試みをする国が出て来ないとも限りません。着地点が分からなくなったと言ったばかりですが、やはりロシアの横暴は押さえられなくてはならない。となると、私たちもできることをしなくてはならないという気になってきます。

【わが身に降りかからない限り、どんなことも見過ごせる罪】

 ところで先月21日にプーチン大統領が30万人の予備役招集を発表して以来、国境を越えて外国に逃れようとする若者が数十万人もいたと、しばらく前、テレビでは盛んに放送されていました。
 それに関してドイツは早い段階から歓迎の意を表して受け入れの意向を示しましたが、バルト海の小国ラトビアは瞬時に拒否の姿勢を見せました(エストニアリトアニアもすぐに追従した)。
 なんと心の狭い国か、ロシアで予備役招集がうまく行かなかったらそれこそウクライナの思う壺ではないかと思ったのですが、ラトビアにはラトビアの言い分があるのです。
 外務大臣がこんな言い方をしていました。
ウクライナで市民が殺されていた時、ロシアの若者の大半は何をしていたのか。危険が我が身に迫って急に反戦を口にして祖国をあとにするとは何事か。さっさと帰って国内で反戦運動でもしろ」(大意)

 確かにその通りです。わが身に降りかからない限りどんなことでも見過ごせるというのはそれ自体が罪なのかもしれません。しかしそれは遠い東の果てのさらに山奥で、安穏と隠居生活を送る私についても言えることです。