成果は我が国で利用すればいい。
同じように無意味な努力をしないで済むように、
いつも周囲を見回していることは多忙な学校教師の必須な条件だ。
という話。
(写真:フォトAC)
【隣り百姓の伝統】
実は日本という国は、基本的にそういうやり方が似合う国なのです。いや、日本に限らず、農耕民族というものはそういうものです。
この国には「隣り百姓」という言葉があって、これは主体性を重んぜず、お隣りの様子を見ては作業を進める農民の在り方を示しています。お隣が苗床をつくり始めたら慌てて自分も始め、田植えを始めたらこちらも準備を始めるというやり方です。
私もここ2年あまりは一日置きのジョギングコースに畑道を入れ、プロの農家がキャベツを植え始めたら自宅でもキャベツを植え、ナスを撤去したらもうこれ以上の収穫は望めないと考えてナスを片付けるようにしています。キャベツやナスはいいのですがタネ播きをしている畑では何を撒いているのか分からないので足を止めて、「何を蒔いているのですか」と聞くことにしています。教えてくれないということはありません。そんなことを訊くのは素人に決まっているからです。
「ここ2年あまり」と書きましたが、ジョギングを始めたのが2年前で、それまでは農家の様子などあまり目に入らなかったのです。しかしもっと早く気づくべきでした。「隣り百姓」は素人に最適の方法で、おかげでここのところ特に秋冬の作物生産に腕を上げ、これから楽しみなものもいくつかあります。
【狩猟民族のモットーは「出し抜け!」】
ところが狩猟民族は違います。「隣り狩り」「隣り採集」というわけにはいかないのです。
マンモスだのオオツノジカだのといった大型の獲物を狙うときは皆で出かけるにしても、小動物や木の実を取る時は、人のあとをついて行ったのでは話になりません。日本でもマツタケ狩りで、人のあとについていってもダメでしょう?
狩猟民族のモットーは「他人を出し抜け」です。人より早く起きて雪の中のウサギの足跡を追ったり、渡り鳥が帰ってきたら誰よりも早くいって狩場の良い場所を押さえなくてはなりません。たくさんの栗を拾ってきた人に落ちていた場所を訊いても、教えてくれないかすでに全部拾われたあとです。
以前、ブッシュ大統領(父)の夫人のバーバラさんの言葉として「ブッシュ家の人間は負けることに慣れていないのです」を紹介したことがありますが、アメリカの子どもたちが小さなころから「勝ちなさい」「他人を打ち負かして上に立ちなさい」と教えられて育ちます。いかにも狩猟民族の末裔らしい考え方です。
kite-cafe.hatenablog.com しかし私たちは農耕民族なのですから、右顧左眄してなかなか動かないことを恥としてはいけないのです。この件に関して、私は自主性を発揮したばかりにひどく損をしたことがあります。
【まともにやれば損をする――こともある】
今から35年ほど前のことですが、文科省が突然、「学校はすべての教科について、細かな年間計画を立てるように」と言い出したことがあります。 どういう経緯があったのか――まだ当時は目の前の仕事で精いっぱいの新人だった私は覚えていないのですが、とにかく1年間のすべて授業の、行う時期、単元ごとの授業時数、単元の目標、1時間ごとの目標、授業の流れ、使う資料について、事細かに記述して提出せよ、ということだったのです。
そのころ私は小さな中学校の社会科教師で、同じ教科にはもう一人の教科担任がいたのですが、初老の大先輩でとてもではありませんが「分担しましょう」とは言えず、地理・歴史・公民の年間指導計画(カリキュラム)を3カ月かけてひとり作ったのです。とんでもない労力でした。
ところがしばらくして、社会科教師の集まりにみんなで持ち寄ろうという話になったとき、のぞき込むと各校のカリキュラムは似たり寄ったりで、中には体裁のほとんど同じものまであったりします。あまりにもそっくりなので怪しんでいると、
「Tさん(私のこと)、それ、自分でつくったの?」
私がびっくりしながら、
「ええ、つくりました」
と答えると、
「そりゃあ大変だったろう。オレなんかA中の〇〇先生があっという間につくったって聞いたから、もらいに行って名前だけ書き直して出しちゃった」
「・・・・・・・」
考えてみたら同じ市内で使っている教科書はみな同じ、授業は教師の個性だと言ってもやっていることは大同小異です。どうしても個性を出したかったら、誰かのカリキュラムをもとに手を入れればいいだけのことです。
そう言えば私が半分もできていない時期に、何人かの同業者から、
「Tさん、どのくらい進んだ?」
とかいった問い合わせの電話が入ってきていたのです。もしかしたらあれも全部、他人のフンドシで相撲を取ろうという話だったのかもしれません。
この話には後日談がふたつあって、ひとつは文科省がそれきり忘れてしまったみたいで、そののち今年やってみた結果はどうだったかとか、改訂をどうするかといった話は一切なく、私の作った大部の「カリキュラム」は倉庫の棚に眠ってしまったのです。もうひとつは数年後、教科書会社が自社の教科書を採用してもらいたいばかり精緻なカリキュラムを作成して、日本中の教師の努力を水の泡にしてしまったこと――あの膨大なエネルギー消費は何のために必要だったのでしょう。
【本質的でない仕事は手を抜け――経験は役に立つ】
ただし、やがてこの体験は生かされることになります。
2001年から2002年にかけて、私たちは異常な努力を傾けて「評価基準」なるものを作りました。それは学校で行うすべての授業時間について、
「その時間でどういった能力をつけさせるか」
「その能力がついたかどうかをどう判断するか」
「十分つかなかった場合は、どう対応するか」
などを盛り込んだ学習プログラムの集大成です。したがって各学年電話帳一冊にも匹敵するような膨大な書類づくりになりました。一時間の授業中に最低2回は児童生徒個々の学習状況を評価しなくてはならないという非現実的なもので、もちろん今は書棚の奥でほこりをかぶっています(そうでなければ燃やされている)。
私は十分に知恵のついた年齢でしたので、このとき真っ先にやったのは近くで研究指定校になっているところを探すことでした。大きなプロジェクトですので絶対に9月ごろまでに評価基準を完成させ、10月あたりに研究発表をする学校があると考えたのです。
その年の10月、思った通り私はまんまと「評価基準」を丸ごと手に入れ、表紙を付け替えて自校のものとしました。このときは教科書会社の対応も早く、翌年には教科書の準拠した「評価基準」が出て来ましたので、ムダな努力しなくてほんとうによかったと思いました。
「隣り百姓」はこの国では正道なのです。