「教育現場の少人数化は集団脳を阻害する」~隣り百姓と集団脳④ 

 集団が大きければ大きいほど集団脳は働く。
 農耕は人間集団を巨大化し、集団脳をより大きく働かせた。
 さらに日本の場合には、集団脳のすべての細胞を働かせる仕組みがある。
 したがって学校の少人数化も、必ずしも良いものだとは言えないのだ。

という話。

(写真:フォトAC)


【農耕が集団脳を生み出した】

 NHKスペシャル▽ヒューマン・エイジ人間の時代 プロローグさらなる繁栄か破滅は、集団の大きかったホモ・サピエンスが集団脳で技術革新を繰り返し、地球の覇者となったことを示しました。しかしネアンデルタール人が家族単位で行動したのに対して、なぜホモ・サピエンスが150人を越える大集団として動いたのか、その点については説明がありません。私はそこに初期の農業のようなものを想像するのですが、これといった証拠があるわけでもないのです。

 ただもちろん世界の四大文明と呼ばれるものがすべて大河の下流域で、しかも降水量の少ない農業に向いた地域で発達したことは知っています。
 狩猟・採集を中心とする人々は基本的に「他人を出し抜くこと」が生活のスタイルとなり、誰よりも早く獲物を発見したり、動物のエサとなる草原や魚の集まる場所、実の良くなる木を知って誰にも教えないことが重要です。それに対して農耕を生業とする人々は、用水路の造営や川の氾濫からの復興のため、組織化された多くの人間が必要となります。そこから多くの人間が集められたという事情があるのかもしれません。もっとも平原を大きく移動する獲物たちと違って、川はそこまで大きく動きませんから、自然と人々が集まって来たという事情もあったのでしょう。土地があって生産が増える限り人口は増え続け、そこに集団脳の機能し始めるのです。

 

【知の共有としての「隣り百姓」・機能的な日本の巨大集団脳】

 「隣り百姓」というのも、集団脳の立場から考えると単なる集落における知識の拡散で、経験豊かな者の知恵をみんなで共有しようとする動きに過ぎません。手に入る智恵が目の前にあるのに、何も個々人が獲得し直す必要はないのです。そこで浮いた時間やエネルギーは次の知恵に投入されればいいのです。それは主体性や追求心とは全くかかわりのない話です。
 
 現代の日本社会は現場の意見をよく吸い上げることで知られています。末端の工員や店員も自らの発想を提案書というかたちで、いくらでも上げることができます。その意味では集団脳を機能的に働かせている社会とも言えます。
 そうした巨大集団脳がものづくりにおける日本人の丁寧さ、利用者にとって最も使い勝手の良い製品づくり、改良の巧みさ、息の長い製品開発などに繋がっています。「おもてなし」も製品の不良率の低下も、上からの指示だけで達成できるものではありません。
 それは子ども社会についても言えます。

 

【少人数学級は集団脳を阻害する】

 現場の教師だった経験からして、私は学級の規模についても「集団脳」の視点から考えることが大切だと思っています。というのはわずか15人のクラスの担任をしたころ、少人数学級がさっぱり良いものだと思えなかったからです。
 例えば討論の場面でひとつ優れた意見が出ても、それで繋がらずに止まってしまうのです。一クラス40人もいると優秀な子が数人いて、さらに2番手グループもありますから優れた意見に対抗する考えは必ず現れ、発言が絡み、2番手3番手も次第に全体を理解して話し合いに加わり、最後までひとことも言わない子たちも目を輝かせる――いつもそうなるわけではありませんが優れた討論の生まれる可能性がいつも見えています。
 ところが15人だと良い意見が出ても「アイツが言うことだから間違いないだろう」ということでみんなが納得して終了。まったく深まらないのです。ネアンデルタール人もかくあらん、という感じです。

 互いを良く知っていて能力の序列がはっきり見えますから、あえて戦いを挑んだりしません。つまり切磋琢磨が発動しない。アイツに任せておけばいいのですから、知の拡散・共有ということも起こりにくくなります。
 教師の目の届きやすいのも善し悪しで、授業の分からなくなった子は、自ら頑張らなくても待っていれば先生が来てくれることを知っていますだからがんばらない。しかしだからといって一クラス40人もいる環境では教師の目も届かず、必要な子に支援の手が伸びません。
 ではどうしたらよいのか――。

 

【すべてを包括する改善策があった――つい最近までは】

 この点で最も優れているのがチーム・ティーチング(TT)です。一人の教師が全体指導をして、もう一人が目の届きにくい部分に手を入れる、これだと集団脳は機能し、落ちこぼしもない。
 私は20年も前から少人数よりTTと言い続けてきました。しかし極端な話、学級担任が2倍になるわけですから予算も膨大。実現の可能性はほとんどありませんでした。
そして今は――全学級複数担任などありえない夢となり果ててしまったのです。
 予算ではありません。教師になってくれる人がいないからです。この国の教育は崩壊する。
(この稿、終了)