カイト・カフェ

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「隣り百姓の何が悪い!」~隣り百姓と集団脳② 

 「隣り百姓」という言葉の使われ方が分からないところがある。
 しかし私の中では圧倒的に前向きなものである。
 「隣り百姓」が日本経済の推進力で、
 「隣り百姓」が日本文化の基礎をつくった。

という話。 

(写真:フォトAC)

【隣り百姓の何が悪い!】

 「隣り百姓」という言葉を使いながら、けれど私にはそのニュアンスがよくわかっていないところがあります。
 例えばネット上で、
「隣り百姓という言葉が日本人全体の特性を表現する言葉としても、つまり日本人は人真似ばかりして個性がない、独創性がないと卑下するさいにもそれが使われていた」
などという文に出会うと、ちょっとした違和感に目まいのする感じになるのです。
 もしかしたらそれは「百姓」が差別語として使われていた時代の名残で、「百姓」と聞いただけで下に見ようとする人たちの傾斜のかかった見方なのかもしれません。

 私などは祖先が百姓だったこともあって、そのしぶとさ、したたかさ、あるいはその勤勉さ・実直さ・健全性などに敬意を表し、自分もかくありたいと思ってきましたから「隣り百姓」と聞いても、むしろ前向きな思考しかできないのです。
 例えば隣が洗濯機を買った、冷蔵庫を買った、テレビを入れた、自家用車を買った、だからウチも、とい隣り百姓根性は高度成長期の原動力でした。

 子どもの教育についても、お隣がピアノ教室に入れた、バレエを習わせている、スイミングはどうだ? リトルリーグとサッカーとどちらがいいんだ? おっとバイオリンという手もある卓球もある、しかし何もやらせないという選択肢はない――そういった浅ましいような追求力は、隣り百姓の伝統があってこそのことだと思うのです。
 おかげでピアノやバイオリンあるいはバレエなどの国際コンクールで、日本人は入賞者の常連となっていますし、水泳や卓球、野球などでは世界で戦える選手が目白押しです。しかもすごいのはそうした習い事をさせている親たちの大半が、本気で子どもたちをプロの演奏家や国際的アスリートに育てようと思っていないということです。
 ただ「みんな何かをやらせているから」「ひとつくらい何かやらせておいた方がいいと思ったから」といった没個性的な、非主体的な動機から始めているのです。

 

【実のところ、社会が求めているのは個性や創造性ではない】

 教育の世界ではよく、
「これからの時代は知識だけではダメだ。個性や独創性、多様性こそ大事だ」
とか、
「ただ人と同じようなことをやっていてはだめだ。人とは違った豊かな発想性こそ大切だ」
とか、あるいは、
「先生の言うことを、ただハイハイとやっているようではだめだ。学校にはない、教科書では学べないことにこそ、真の価値がある」
とか言われたりしますが、これらも必ずしも「隣り百姓」を否定したものではありません。

 一見、個性や独創性、他人と違った思考などを重視しているように見えますが、それは、
「知識が十分にあって、基本的に人と同じことができ、先生の言うことを何でもハイハイと実現してしまうような優秀な人間が、その状況に甘んじているようでは困る」
と言っているだけで、
「知識が十分でなく、しばしば周囲に合わせられず、先生の言うことの半分も実現できない普通の子」
のことなどまったく考えていないのです。
 国語でも数学でも体育でも、「先生の言うことを、言われる通りにハイハイと」できる子なんて、一学年にひとり、いるかいないかの逸材でしょ?

 社会は、あちこち欠けた部分も多いがある一面において決定的な才能をもった偉大な天才(モーツアルトエジソンスティーブ・ジョブズのような人)が、たくさん出てくるように望んでいるわけではなく、“普通に気持ちよく働ける人”が前提なのです。

 

【「隣り百姓」に価値がある】

 だから個性だの独創性だの言わず、隣りを見て真似をしながら過ごしなさいというわけではありません。「隣り百姓」には隣り百姓なりの価値があり、おそらくそれは日本人に合っていて、その価値を見直すところから始めると、日本人なりの、あるいは日本人ならではの、個性や創造性、多様性や発想性が見えてくるのではないかと思うのです。
 そのヒントとなるのが「集団脳」です。
(この稿、続く)