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「横並び・我慢強さ・協調性・ムラ、百姓はこころ病まない」~今年の畑の準備ができて考えたこと①

 今年の畑の準備ができた。
 明日にも苗を買いに行って、植え付けを始めよう。
 農業は私たちの感性と深いつながりがある。
 稲作が私たち日本人を創り上げたのだ。
という話。(写真:SuperT)

【今年の畑の準備完了~畑づくりには順序がある】

 晴耕雨読と言いますが、必ずしもタイミングよくことが進むとは限らず、今年の3月末から4月上旬にかけては天候が悪く、毎日、雨読、雨読、雨読でやきもきしましたが、ここにきて今度は、晴耕、晴耕、晴耕・・・。おかげでヘトヘトですが、いちおう今年も畑の準備が整いました。今日明日あたり、苗を買ってきて植え付けようと思います。

 当たり前の話ですが、作物は種類によってそれぞれ収穫の時期が違います。しかし種を撒いたり苗を植えたりする時期も異なり、時を外すと苗が売っていないということも起きたりするのです。
 かつてジャガイモとネギで時期を逸してつくれなかったことがあったので、この二つには特に気を遣います。ブロッコリ・キャベツ・レタスの苗も少し早めに出て来て早くなくなります。他は――ナスだとかキュウリだとかトマトだとかは、だいたい同じ時期に出てくるので忘れることはありません。

 種から育てるものの中には5月、6月、あるいは7月に入ってからでないと蒔けないものもありますが、苗と違って売り切れるということがないのであまり気を遣わなくても済みます。

 こうした知識は、頭のいい人なら本を読んだだけで覚えられることでしょうが、私の場合は失敗を繰り返しながら身に着けて行くしかありませんでした。よそ様がやっているのを見ては後追いするということも多くて、気候による年ごとの微妙な時期調整などは、それが一番間違いないと言えます。このような隣りに合わせて行う農業のやり方を、「隣り百姓」と言います。

【横並び・我慢強さ・協調性・ムラ】

 日本人は横並びを好み突出することを嫌うといいますが、こと農業に関しては横並びの方が有利であって、誰も種を蒔かない1月に種まきを敢行したり、野菜の品薄になる時期の収穫を狙って11月に種を蒔いたりすることは、工場栽培など特殊な状況でない限り、ありえません。愚か者のすることです。「出る杭は打たれる」というのは単に突出してはいけないということではなく、普通のやり方から逸脱してはいけないという横並びの意味も含んでいるのかもしれません。

 農耕民族はまた、我慢強くなります。どれほど天候が悪くなろうと、政治状況が変わろうとも、田畑を担いで逃げるわけにはいかないからです。家畜の食べるエサを求めて移動を続ける遊牧民や、ユダヤ人のように迫害を受けたらいつでも脱出できるよう商工業を中心に生業としてきた民族にも、それぞれの辛さと対処の仕方があると思いますが、「じっと耐える」形にハマりやすいのはやはり農耕民族でしょう。

 さらに同じ農耕でも、畑作中心の欧米と稲作中心の東アジアとでは文化のかたちが違ってきます。というのは水田づくりには畑づくりよりもはるかに大規模な土木工事が必要だからです。
 とにかく水田は全部が水平でなくてはいけません。ですから傾斜がきつくなるほど田の区分けは細かくなり、形もさまざまなものになって行きます。典型的なのは棚田ですが、石川県の輪島の千枚田などを見ると、昔の農民の異常な執念を感じたりします。
 田に水を引く水路は、場所によっては千分の一(1km流れて1m下がる)といったわずかな勾配しか取れないこともあり、極めて優秀な技術が必要でした。
 もちろん水田ですから、田の水が抜けない技術も大切です。

 そしていったん水田ができあがると、人々はその場を離れられなくなります。原野を畑にするのも大変ですが、水田にするのは途方もなく大変だからです。自分の田を守るために人々はムラをつくり、人間関係を閉鎖します。その伝統が今日まで続いています。

【百姓はこころ病まない】

 農業というのはとてもシンプルな世界です。
 ある年のある作物が、予想外に採れなかった場合、悪いのは自分か天候です。それ以外ではありません。誰かにおもねれば収穫高が増えただろうとか、家族内にだれか邪な人間がいたから不作になったということでもありません。

 天候が悪かったか、私が何かした。水やりをサボった、遅霜(おそじも)対策を怠った、病害虫への対応が遅れた等々――。ですから誰かを恨むでもありませんし、あれこれ思案する必要もありません。
 台風一過ですべてが洗い流されても、今年一年を雑穀や草の根を齧って凌げば、来年の豊作は保証されているようなものです。なぜなら田畑が流されたということは上流から運ばれた肥沃な土が、洪水のあとに残されたということなのですから。
 
 かつて私は同僚の父親で、専業農家の方からこんな話を聞いたことがあります。
「百姓はこころ病まない」
 たしかにその通りです。人間関係だとこうはいかないのですが、百姓仕事には総じて悩むこともストレスもありません。シンプルで、がんばるか受け入れるしかない世界だからです。
(この稿、続く)

*「百姓」という言葉を差別用語のように感じる人がいます。
 しかしこの言葉は、「鄧」やら「周」やらと極端に姓の種類の少ない中国で、国民のことを「百姓(百の姓)」と呼んだことに由来します。当時の国民(百の姓)はほぼ全員が農業従事者であったため、百姓=国民=農業従事者となって、百姓は農業従事者と同一視されるに至ったのです。私は国民であることにも農業に携わっていることにも誇りを感じていますので、百姓という言葉も好んで使用しています。