カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「小説家たちの頭の中」~天才の脳と人生①

 東野圭吾の小説を原作とする映画を観た。
 大きな事件が起こるわけでもないのに、
 小さなできごとの積み重ねが登場人物の心を揺さぶり、
 読者を引き寄せてやまない――。
 それを生み出す天才の脳みそは、いったいどうなっているのだ?

というお話。

f:id:kite-cafe:20200616071711j:plain(「脳の伝達の様子-青背景」フォトACより)

 

【映画「人魚の眠る家」を観た】

 雨が続いて畑仕事ができなかったのがようやく晴れて、張り切って働いたら午前中で疲れ切ってしまいました。昨日のことです。とにかく蒸し暑かった――。

 そこで午後は少しゆったりと休んで、Amazon Prime Videoで東野圭吾原作の映画「人魚の眠る家」を観ました。途中からです。


 実は2~3か月前の休日、妻が当てずっぽうにこの映画を選んで一緒に見始めたのですが、途中で仕事を思い出して席を外したので後半を観ていなかったのです。あとで妻に聞くと「すごくよかったわよ」というのですが、私の観た範囲では少し冗長で、どこへ進もうとしているのか方向も分からない感じで何か退屈だったのです。

 ですからそれきり続きを観ようという意欲もなくそのまま終わるところだったのですが、何かの折に原作が東野圭吾だと知って、原作が東野で映画化されたとなるとおもしろくないはずがない、少なくとも映画館なら払った料金分くらいは保障されているはずだ、そう考えて続きを観る機会を窺っていたのです。

 おもしろいことが分かっていながら機会を窺うというのは若い人にはわからないと思いますが、年寄りは日常の定型業務(ルーティンワークなどと安易に英語を使ったりしません。都知事ではないので)以外のこととなると、何をするにも腰が重いのです。

 もちろん映画は期待通りのものでした。
 私が退屈だと切り上げたのは映画の中ほど、物語の方向性が見えていよいよおもしろくなる1分前くらいのところで、あと少し頑張れば一気に最後まで観ることのできた場面でした。これが映画館で料金を払って観ることとの大きな違いで、映画館で中座する人はまずいません。否応なく最後まで観ます。
 テレビ鑑賞であっても人が命をかけて作った作品ですから、本来はこちらも居住まいを正して観るべきものなのでしょう。家では楽ですし無料という魅力もありますが、やはり限界もあります。

 ただし言い訳をさせてもらえば、私が退屈だと早合点したことにはそれなりの理由もあったのです。とにかく大した事件は起こらない――。

 

【作家の脳みそ】

 「人魚の眠る家」は、一言でいってしまうと、一組の夫婦が事故のために脳死状態に陥った娘の死を受け入れるまでの物語です。それ以外に何も起こりません。ある程度のまで進まないと、だから退屈なのです。

 東野圭吾にはときどきこうした作品があって、例えば「秘密」では、事故で死んだ母の意識が娘の肉体に移ってしまい、中身は夫婦、外見は父娘という不思議な共同生活がはじまる――事件らしい事件はそれだけで、あとは淡々と進む日常の物語です。それなのにグイグイと読ませるのがこの作家の筆力で、最後まで読まずに終えることが難しくなります。なぜそうなるのか。
 思うに東野圭吾という作家は、小説を書きながら登場人物の全員に同時に乗り移ることができるのです。

 世の中の人々は誰でも何らかの事情を抱えているのであり、それぞれにこだわりがあり、常人には計り知れない場合もあるとは言え、それなりの論理があって生きているのです。その多様な人間たちが一か所に集まり、何かのできごと・事件が起こると、人々は相互に絡み合い、対立し、あるいはすれ違って物語が自然に発生し、動いていく――それを記録するのが東野の仕事だと、そんな気がするのです。
 そのことは東野自身が「流星の絆」に関するインタビューで、「作品を仕上げるのは苦痛ではなかった、特にラストは自分ではなく登場人物が書かせた」と語っていることでも知れます。

 要するに登場人物になり切る、しかも同時に複数の人物になりきることで自然に作品が仕上がっていくわけで、難しいのはその後半の方です。凡人はひとりの人間になり切ることはできても、同じ場所にいる別の人間にもなり切って物語を進めることができないのです。

 

【もう一人の天才作家の脳】

 東野圭吾とは少し違うのですが、小説家の脳という点ではもう一人の天才作家についても考えたことがあります。「ハリー・ポッター」シリーズのJ・K・ローリングです。
 彼女はシリーズ7巻の最初の4巻を1年おきに、残りの3巻をほぼ2年おきに出版していますが、その執筆期間の大部分を物語の整理のためだけに使っていたと思うのです。

 とにかく物語の素材となるエピソードは果てしなく浮かんでくる。その気になれば1巻に200も300も盛り付けることができる、けれどあまりに多すぎてつじつまが合わない。それをどう取捨選択し、一部を捻じ曲げてひとつの物語に仕上げていくか、それだけがローリングの仕事らしい仕事だった――私にはそんなふうに思えるのです。
 少なくとも次の展開が思い浮かばなくて苦労している形跡はまったくありません。

 小説家の固定化したイメージとして、ホテルに缶詰めになり、アイデアが浮かばないので髪の毛をかきむしって苦しむ作家というのがありますが、東野もローリングもまったくそんなタイプではない。物語は際限なく湧き出でる、あとは整理して書き写すだけ――おそらくそれで間違っていないと思います。

 私は子どものころから文章を書くことが好きでしたから、将来は小説で飯を食って行くことも考えなかったわけではありません。しかし今から考えるとまったく才能がなかったので、長くこだわって追求することもなく済みました。
 中途半端な才能がなくてほんとうによかったと思います。東野圭吾J・K・ローリングと同じ舞台に立とうとしていたら、今ごろそうとうに悲惨なことになっていたに違いないからです。

(この稿、続く)