カイト・カフェ

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「記憶力と地頭(じあたま)、落ちてくる啓示」~天才の脳と人生②

 天才の脳には形状や大きさに特徴でもあるのだろうか?
 そもそも天才というのは何なのだろう?
 私たちは天才とどうかかわっていくのか?
 天才たちは幸せなのだろうか?
 といったもろもろが浮かぶ――。

というお話。

f:id:kite-cafe:20200617064241j:plain(「AI スピード」フォトACより)

【脳の重さと天才】

 フランスのノーベル文学賞受賞者アナトール・フランス(1844-1924)について、私が知っていることはひとつしかありません。
 死後、計ったら脳の重さが1017gしかなかったというのです。このことから頭の良さと脳の大きさ(容積・重さ)は関係がないと言われています。平均的な男性の脳が1350~1500gですから確かに軽いと言えば軽い。しかし80歳で亡くなった人の脳が軽かったからといって、若いころからそうであったかどうかは不明です。

 同様にアインシュタインの脳も1230gでかなり軽い方ですが、右脳と左脳の形に大きな隔たりがあり、しかも普通の人は三つの隆起からできている前頭葉が、彼の場合は四つあったと言いますからかなり特殊な脳だったのでしょう。
 ちなみにアインシュタインの業績のほとんどは20代半ばでなされていますから、76歳で亡くなったときの脳が軽めだったとしても、どこまで意味のあることなのかは分かりません。

 逆に“やはり頭の良い人は脳も重い”と思わせる情報もあって、ナポレオン三世が1500g、カントが1650g、ビスマルク1807g、ツルゲーネフ2012gなどが有名なところです。日本では夏目漱石が1425g、内村鑑三が1470g、桂太郎1600g。今の水準だと大したことはないみたいですが、それぞれの時代の平均よりはかなり重かったようです。

 ただし重ければいいというものではないのはゾウの4700g、マッコウクジラの9000gを考えてみれば分かります。あれだけ大きな体を動かすとなると、脳の基幹部分だけでもかなりの量になってしまうのでしょう。
 とりあえず、脳の重さや容積、形状から頭の良し悪しを割り出すのはかなり難しそうです。
 
 

【記憶力と地頭(じあたま)、落ちてくる啓示】

 では頭の良い悪いは何によって決まるのかというと、そもそも「頭がいい」ということ自体が定義しきれないので厄介です。

 記憶力は「頭の良さ」の一部ではありますが、それだけでは足りないことは誰しも知るところ。しかしコンピュータに匹敵するような記憶力を持つ人がいたとしたら、それはやはり頭がいいということに違いありません。

 初期コンピュータの開発者のひとりフォン・ノイマンは生涯に読んだ本をすべて全文暗記していたと言いますし、日本では俳優の児玉清博多華丸が「パネルクイズ アタック25」の物まねで逆に有名にした)が、渡された台本をその場で頭にコピーすることができたと言われています。
 私の教え子でものちに医学部に進んだ女生徒のひとりは、数学がいまひとつで、結局、浪人してからは膨大な過去問を暗記することで受験を凌いだみたいです。

 医学部の話が出たところでついでに申し上げますが、医学部や東京大学に受かることは誰にでもできることではありません。
(もちろん医学部・東大は象徴的に言っていることで、他にも努力だけでは受からない大学・学部はかなりあります)

 息子のアキュラが3歳になったばかりのころ、当時通っていた大学院で私の師匠に当たる人が、息子を自分に預けろと言い出したことがあります。オレに任せれば必ず東大に入れてやるというのです。私は眉に唾をつけて聞いていたのですが、滔々と独自の学習法について話を始め、最後に突然、言葉を止めて、
「あ、だけど知能指数が130以上なければダメだぜ」
――そうでしょう、そうでしょうと、私は半分笑いながら頷きます。
 地頭(じあたま)が良くなければどんなに努力しても入れる大学ではないのです。知能指数130以上というのは印象で言えば小学校4年生(10歳)の時に平均的な中学1年生(13歳)と対等の学習ができる能力です。

 努力だけでは100mを9秒台で走るわけにはいかないように、努力だけでは医学部や東京大学に入ることはできないのです。天才や天才的な人たちの頭の中では、特別なことが起こっているからです。

 アインシュタインの頭の中には数式がドカッと一気に降って来たようです。それを後から解析するのが彼の仕事でした。
 エジソンの頭にも発明のアイデアがドサッと落ちてきたようです。あまりにも多くのアイデアが落ちてくるのでさすがのエジソンも不審に思い、自分は神の啓示を受ける受信機のような存在ではないかと疑い始めます。彼はそれをインスピレーション(inspiration)とかスピリット(spirit)と呼んでいます。
 有名なエジソンの言葉、
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」
は、要するに「努力をするなんて当たり前、『神の啓示』がなければ話にならない」という意味です。

 

 【天才でもなく、天才の近くにもいなかった人生】

 天才と呼ばれる人々は、この世に一握りしかいません。
 医学部や東大に入れる人たちは「天才的」であるかもしれませんが必ずしも「天才」であるわけではありません。地方の進学校の、さらに上澄み数%の“とんでもなく頭のいいヤツ”も東大に入ってしまえばほとんどは「普通の東大生」です。

 私たちはめったに「天才」と会うことはありませんし、よほどの悪運でもない限り「天才」と同じステージで競うことはありません。映画「アマデウス」の一方の主人公、アントニオ・サリエリは天才モーツァルトと同じ場所で競うことになった不幸な人物として描かれていましたが、普通はそういうことはないのです。

 また、天才であることは必ずしも幸福を保証しません。
 モーツァルトは少なくとも金銭的には人格破綻者でしたし、二十歳で「ガロアの定理」を完成させて翌日つまらぬ決闘で殺されたエヴァリスト・ガロアの業績は、正しく評価されるのに50年もかかってしまいました。
 ヴァン・ゴッホが生前に売ることのできた作品は1枚だけ(数枚という説もある)で、生涯、貧乏と精神の問題に悩まされました。
 ムンク草間彌生も、脳内で渦巻いているその特殊な精神世界を絵画に落とせる人です。彼らの作品には激しく憧れますが、ただし同じ人生を歩みたいとは思いません。

 若いころは自分も天才の端くれではないかと疑っていた私も、さすがに60年以上も発現しない天才はないと思いきるほかありません。凡才に生まれ、凡才のまま終わる人生です。

 けれど私にはよき仕事をしたという自負があり、わずかとはいえ老後の資金は残り、息子と娘と孫がいます。そして平穏な日々――。
 いつ死んでも“ああ、いい一生だった”と振り返ることのできる人生、それがあるならそれでいいと、今はそんなふうに感じています。