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「地域に必要なものは必ず残る、もしくは復活する」~校長先生のお仕事⑥

 一般教職員と違って、校長は特殊な人間関係を負わされる。
 教委、地区の人々、地域の名士、地方議会議員
 学校は彼らのものであって校長や教員の私物ではない。
 だからどうやっても、校長の思い通りにはならない。 
という話。(写真:フォトAC)

【校長は誰と付き合っているのか】

 一般の教職員が職務上で対応しなくてはならない相手はまず児童生徒、その保護者、教材会社や旅行会社といった民間業者、だいたいそのようなところでしょう。
 管理職、特に校長の対応する相手はだいぶ異なります。児童生徒・保護者・民間業者はもちろんですが、働きかける対象の中心が教職員となり、あとは外部との折衝が大きな仕事となってきます。その“外部”とは何か――。

 教育委員会が大きな比重を持ちそうなことはおおよそ想像がつきます。あれこれ指示を受けて、相談にも乗ってもらったりする組織のようです。
 校長会というのもあって、時期によっては何やら忙しそうな様子も見られます。しかしその実態は謎で、何となく訊くのは憚られ、聞いたところでなにかが起こりそうな気もしないので訊ねる人は稀ですが、別に秘密組織ではないので好学の士は校長先生に訊いてみればいいのです。たぶん親切に教えてくれます。
 学校評議会のような組織を通じて地域との名士の付き合いもあるみたいです。しかし頻繁に会っている様子も見られません。入学式や卒業式の来賓となる人たち、PTA会長や交番勤務のお巡りさん・消防署長や民生児童委員、そうした人たちとも顔見知りは間違いないのですが、どの程度に深い交際をしているか、それも分かりません。
――と、ここに大切な一群があることを私たちは忘れてしまいます。入学式や卒業式、運動会などに来て、割と良い位置に席を占め、今は昔と違ってふんぞり返ってはいませんが、堂々と我が物顔で振舞っている人たち――そうです。市町村議員です。あの人たちも学校にとって、びっくりするほど重要な個性(キャラクタ)なのです。

【土の人・風の人】 

 「学校は誰のものか――」という問いかけがあるとして、それに「子どものもの」と答えるのは当然と言えば当然ですがやや情緒的に過ぎます。「(市町村立の場合は)市町村」のものと答えるのも少し観念的に過ぎます。「校長のもの」というのは、制度上は一部正解ですが、それだけだと反発を受けることになります。
 では誰のものかというと――少なくとも小学校については「地域のもの」と答えるのが無難です。というのは明治の学制発布の際、地域の小学校は基本的に地域住民の浄財によって建てられ、伝統的に「学校は自分たちのもの」という思いが地域住民の間には根強いからです。自宅が地理的に学校から近ければ近いほど、「オレたちのもの」という思いも強そうです。
 
 小学校なくしては地域も存続できません。
 少子化のために小規模校の児童数が極端に減ってもなかなか廃校にできない背景には、地域が小学校を中心に成り立っているという事情があります。小学校がなくなれば、少なくとも新たな若い住民は入ってきませんから、なくなった瞬間から地域消滅のカウントダウンが始まることになります。ですから地域の人々は小学校を大事にしますし、静かに、力強く見守っています。
 そうした人たちから見れば、校長も教師も、ただ通り過ぎていく人たちです。彼らはどこかからやって来て数年でまたどこかへ行ってしまう“風の人”です。地域に根づいた“土の人”とは根本から違います。学校を“風の人”たちの勝手にはさることはできません。

 その“土の人(地域住民)”を代表するのはだれか?
――これには明確な目印があります。市町村議会の議員バッジです。代議員制度ではそのバッジをつけた人こそ、“地域”の代表なのです。

【地域の代表が学校を動かす】

 私は管理職になるまで、“議員”が教育委員会や学校にこれほど深く食い込んでいることに気づきませんでした。入学式や卒業式、運動会などに来賓としてやって来て、しばらく時を過ごして帰るのも、単に顔を売って票を稼ぐためくらいにしか思っていなかったのです。
 もちろん今の小学校6年生もわずか6年後は有権者ですから、顔を覚えてもらう必要はありますが、学校を訪れることによってそこで問題や要望を吸い上げ、議会質問につなげたり実績づくりに役立てたりすることがかなり重要な仕事なのです。また、意外に思うかもしれませんが、議員の多くは、かなり真面目に、かなり本気で、地域の学校を愛し、学校のために役立ちたいと考えているのです。

 あるとき私の勤務していた学校で面倒くさい「いじめ事件」が起きました。面倒くさいといったのは被害者の6年生が「いじめられた」と言って家に引きこもった上で「いじめ」の実際にいっさい口をつぐんでしまったのです。誰にやられたのか何をされたのかまったく話さない。それなのに「いじめられ学校にいけない」という。他の子たちに聞いても、かなり良心的な子どもも含めて、誰も知らない。これでは調査の糸口さえつかめず、それなのに保護者は期限を定めて、それまでに誰が何をしたのか詳しく調べて文書で返答しろと迫る――ほとほと困り果てるその直前、市会議員がいきなり訪ねて来て、
「この問題、解決しませんよね。転校させましょう」
とか言って、あっという間に教育委員会と話をまとめ、手続きをとってしまったのです。私としては本質的な問題を棚上げにしたままの転校というのはいかがかと思ったのです、半分、拉致にあったようなものですから黙って引き下がるしかありませんでした。その後、児童は新たな学校で気持ちよく登校し始めたのですが、わずか三か月後に再び実体の分からない「いじめ」に遭って学校に行けなくなり、そこで親も初めて本質的な問題に立ち向かわざるを得なくなったのです。結果的に議員の判断は正しかったと言えます。

 また別の学校では複数の議員が、いつの間にかなくなっていた小学校の名物、金管マーチングバンドを復活させようと校長に働きかけ、働きかけたくせに予算措置が行えず、結局、校長や職員・PTAがたいへんな苦労をして寄付金を集め、再結成するという大変な場面に立ち会ったことがあります。
 学校にとってはとんでもない迷惑、在籍児童の保護者は自分たちが苦労する話なのでこぞって反対だったのですが、地域全体として要望が高く、議員たちはそれを吸い上げて実現したのです。

【地域に大切なものは必ず残る、もしくは復活する】

 田舎の運動会では、地域の人たちが手分けをして地区内のお年寄りを連れてきたりします。つい十数年前までは、保護者たちがビール片手に焼き肉を焼きながら子どもたちの応援をしたものです。さらに十数年遡れば、1~2軒ながらも綿あめやフランクフルトの屋台が出ていた時期もあります。小学校の運動会は地域のお祭りなのです。
 音楽会もバザーも、それを楽しみにしている地域の人々が大勢いて、それを守ろうとする地域の有力者や議員がいます。

 校長は、権限として運動会や文化祭、入学式や卒業式を極端に縮小したり廃止して別のものに置き換えたりすることができます。しかしそれはしていいことなのか。
 地域から運動会や音楽会や文化祭を奪ってわずか2~3年後に消えて行く。その先進的な校長の元で働き方改革の恩恵に預かった先生たちもいなくなって、あとには殺伐とした学校が残る――そんなことがあり得るのか。
 おそらくそうはなりません。前述のマーチングバンドのように、状況が変われば必ず復活します。だとしたら、教員の働き方改革は別の方法で行うべきなのです。