強制や圧力から解放されることだけが“自由”ではない。
恐怖からの自由、貧困からの自由、差別からの自由・・・。
だから学校で一番自由なのは、よく学び、よく動き、よく遊ぶ、
つまりよく躾けられた子だ。
という話。(写真:SuperT)
【躾ができているとこんなに自由なんだ】
つい数年前まで、我が家では3羽のウサギを飼っていました。最初の1羽は娘のシーナが独身時代に購入したネザーランド・ドワーフで、1年ほど遅れてきた番(ツガイ)の2羽はクリスマスセールの売れ残りを、6月になって妻がタダ同然でもらってきたミニウサギでした。3羽同時に放すと喧嘩はするは生殖活動に入るはで大変なので、ゲージを出るのはいつもジュンバンコ。しかもシーナの育てたドワーフはトイレット・トレーニングに失敗してどこにオシッコをするのか分からないので、屋内で放すことはできません。その点、あとから来た2羽は半年も売れ残っている間にプロにしっかりと躾けてもらったので、お尻のきれいな子たちでした。
最終的にはミニウサギのオスが生き残り、死ぬまでの2年間、その子はゲージにはほとんど入らず、室内を自由に走り回って過ごしました。その様子を見て、東京から帰省したシーナがこんなふうに言います。
「躾ができているとこんなに自由なんだ」
今週火曜日(19日)に、孫2号の七五三について書いた際、
「意外だったのは、問題の多い出産と成長だったにも関わらず、私の娘で母親であるシーナ(仮名)は甘くならず、ハーヴに対しては厳しくすべきところは驚くほど厳しかったことです」
と記しましたが、もしかしたらウサギでの失敗を二度と繰り返さないと、本気で思ったのかもしれません。
【自由の概念を拡張する】
「自由」と聞くと私たちはすぐに「強制」だとか「圧力」だとか、あるいは「規制」「きまり」「校則」といったものを思い浮かべますが、現在、地球上のあちこちで、少しタイプの異なる自由を切実に希求している人たちがいます。
ガザやウクライナの子どもたちが切実に望んでいるのは「恐怖からの自由」です。今日が普通に迎えられたように、明日も確実に訪れると信じられること、そもそも自分や家族の命について無頓着でいられること、それが基本的で最大の願いです。
タリバンの支配するアフガニスタンの女性たちが求める最大のものは、「学びたいことを学べる自由」です。学問のない女性は経済力も持てませんから一生、男たちにかしずくしかありません。ひとつの不自由が別の不自由を生み出していくわけです。
世界中で「貧困からの自由」が問題とならない国はまずありません。この日本ですら1円の貯蓄もない家庭が2人以上の世帯で約22%、単身世帯では約33.2%もあります。普段は何とか生活できていても、いざというときは一気に追い込まれてしまいます。
世界のどこかでは“壁”が難民や貧民を封じ込め、自由に移動できないようにしています。人々は“恥の壁”と呼んで非難しますが、いっこうになくなる気配はありません。いまだに身分差別や宗教が自由の壁となって人々を苦しめている国や地域もあります。
【学校で一番自由な子たち】
「“自由”というのは法令や他人の目といった束縛からの解放だけではない」
そう考えると学校の教室の風景も違って見えてきます。そこで一番自由なのは、校則をもろともせず、服装やアクセサリーに凝って化粧をし、静寂をやぶって暴れ回るあの子たちではありません。あの子たちは学校のいたるところで教師たちとぶつかり、指導され、身動きを取れなくされています。同級生や同学年の中には無条件に手を叩いてくれる子もいますが、一緒に行動しないところをみると、背を向けるのもあっという間でしょう。
ほんとうに自由な子は別にいます。
とりあえず思いつくのは、学業成績が学年でトップの子たち――この子たちは努力が報われなかったらどうしようといった不安から自由です。努力が確実に実を結びます。授業中に先生から指名されたら困るといった恐怖からも自由、返された答案用紙を覗かれたらいやだなといった思いからも自由です。いま述べた三つのことは、逆にそれがない場合を考えたら状況がよく分かります。
しかし何と言ってもこの子たちが自由を実感できるのは、高校受験のときでしょう。都会の超難関校は別として、田舎なら学年トップの子は学区内のすべての高校を自由に選ぶことができます。結局は最上位校を受けることになるにしても、可能性として“どこを受験しても良い”というのは気分のいいものです。逆に成績が低すぎて「受験できる高校がほとんどない、もしかしたら学区内にはひとつもない」といった状況にある子のことを考えれば、成績は少しでも上の方がいいという気にもなります。
もちろん学業成績がすべてではありません。花巻東高校時代の大谷翔平選手は高校の野球部員としてもっとも自由なひとりだったはずです。人一倍努力したことも確かですが、努力が実ると分かっている子は努力しやすいのです。同じ花巻東高校野球部の新入部員でも、入部したと同時に頭打ちになり、3年間、何の実績も残さず終わった選手もいたはずです。要するに才能がなかったわけです。高校時代に野球と決別できてそれでよかったという人生もありますから幸か不幸かは別ですが、その3年間、野球において大谷選手のように“自由”でなかったことは確かです。
勉強もダメ、スポーツもこれといって何もない、しかしとにかくコミュニケーション能力が高くて人気者、人懐こくて男女双方からモテて一人でいる暇がない――もしかしたら勉強やスポーツのできる子よりもはるかに自由度の高いのがこの子たちかもしれません。学校に行くのも社会に出るのも楽しくて仕方ないでしょうね。
【「自由にのびのびと育つ子」は厳しく躾けられている】
子どもが小さなころ、多くの親たちが養育目標として掲げる、
「自由にのびのびと」
それを達成するのは容易ではありません。何もせずに放っておくだけだと最悪の場合、その子は学校にあがってからまるっきり分からなくなった授業を朝から晩まで受けさせられ、常に“指名されたらどうしよう”“笑われたらどうしよう”という恐怖と戦い、体育では実際に笑い者になり、給食のほとんどが食べられない。掃除もきちんとできない。
人間関係は最悪で、何をやっても人についていけないので疎まれ、あるいは「身勝手だ」「わがままだ」と嫌われ、“彼女”も“彼”もつくることなく、いつもひとりで学校と家との間を往復する。あるいは誰かとつるんで、人を脅したり殴ったりすることで人との関係を保とうとする――そんな人生。
かつては学校に任せておけば、先生たちが厳しく育ててくれたものですが今はそういう訳にはいきません。親たちが自己責任でやるしかないのです。いつも言うことですが、学校の先生たちは、家では自分の子にあんな教育はしていないのです。