かつて映画や小説の大きな主題は犯罪と性でした。
財もあり地位もある人たちがなぜああも易々と犯罪にはまっていくのか、なぜ女ひとり(男ひとり)のためにすべてを投げ出してしまうことができるのかが、大きな謎だったからです。実際に体験してみるわけにはいかないことは映画や小説の格好のテーマです。松本清張の推理小説や川端康成・谷崎潤一郎などの性にまつわる小説群は、そうした問題性を真摯に突き詰めた結果です。
最近は“性”がそうとうに一般化し、インターネットを通じて生々しい情報が自由に手に入るようになると“性”への興味は極端に薄れました。ありとあらゆるものが掘り出されてしまい、あとには何も残っていないという感じです。おかげで現在“18禁”(18歳未満入場禁止)といえばほぼ間違いなく暴力と残虐性であり、性をまともに追求しようとする流れは完全に消えたといえます。
犯罪は現在も有力な小説や映画のテーマです。人はどのように犯罪にはまり込んでい行くのか、市井の人が獄に繋がれるプロセスはどういうものなのなのか。なぜそれが可能だと思ったのか、失敗することは考えなかったのか。人を殺す瞬間の想いとはどんなものか、犯罪を成し遂げたあとにやってくるものは何なのか・・・。そうしたことはすべて謎で、納得できる回答が常に求められています。そこに映画や小説の生き残る道が残っています。
私たちはそうした映画や小説を観たり読んだりすることを通して、次第に人間理解の力を強め、実際の事件も行間を埋めて理解できるようになります。
「私はしない。けれど容疑者の犯罪に至る道筋は理解できる」とか、
「この犯罪は理解できない。理解できないながら、しかしその背景には何らかの理由が存在することは容易に想像できる」
といった具合にです。
もちろんそうした経験則がほとんど生きない場合もあります。例えば快楽殺人のようなケースですが、それはサイコパスの物語として埒外に置くことで解決します。
異常快楽殺人の容疑者の内部を理解することはできません。できないからこそ“異常”というのです。しかもそんな異常者は国内に1万人にひとりもいませんから、理解できないと苦しむ必要もありません。理解できなくても少しも困らないことは、世の中にいくらでもあります。
しかし児童虐待は異なります。
それを「特別な異常者による人間理解の埒外の物語」するにはあまりにも数が多すぎます(平成23年度56例・58人)。しかしそれにも関わらずまったく理解できない。最近の埼玉県狭山市の事件では3歳の女の子が小さく丸まって正座させられている写真が公開されました。
左目にアザをつくっている写真もあります。「突き飛ばしたらできちゃった」のだそうです。食事風景の写真でもブランコに乗る動画でもニコリともする様子も見えません。この子が顔に熱湯をかけられて死んだのです。
ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の有名な章「大審問官」のそのひとつ前で、主人公イヴァンの口を借りてこんな話をしています。
「ぼくは神の摂理を信じるよ。憎み合ったものが天国で手を取り合い許し合うことも、不幸だった者・悲しみに暮れた者が必ず報われることも信じる。だけど子どもは別だ。
戦争の最中に無意味に弄ばれて殺された子、親によって無残にも殺された子、そうした子どのたちはなぜ殺されなければならなかったのか、その子たちの死はどんなふうに報われるのか。それに対して答えない限り、ぼくは神様を信じることはできないのだ」
大雑把ですがそんな内容です。
私も同じです。
あのちっちゃな三歳児はなぜあんなふうに小さく丸くなって正座していなければならなかったのか。なぜアザができるほど強く突き飛ばされなければならなかったのか。なぜ熱湯をかけられたのか。
なぜ母親はそれができたのか。
見方によればトカゲだってヘビだって赤ん坊はかわいい。ましてや人間です。三歳の女の子です。
世の中には一流と呼ばれる小説家もジャーナリストもいくらでもいるはずです。なのに誰一人、虐待の納得できる説明をしてくれないのはなぜでしょう。