カイト・カフェ

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「賢いgoogle先生は日本の教育の敵」~日本でオンライン学習が進まない理由③ 

 日本の教育の神髄は敢えて遠回りをさせるところにある。
 その遠回りにこそ、学ぶべき価値はあるのだと考える。 
 しかしネット社会は違う。そこで求められるのは速さだ。
 だからしばしば、学校社会とネット社会は背反する

というお話。

f:id:kite-cafe:20200605074542j:plain(「子どもとパソコン」フォトACより)

 《昨日に続いてT文科大臣(私)が記者団の前で話していますので、お聞きください》

【日本の先生たちはオンラインとどう向き合っているのか】

 一口にオンライン学習と言っても色々ありますよね。いま登校日数が極端に減っている中で期待されている“会議システムを使って学校と家庭を双方向でつなぐオンライン学習”もあれば、Eテレの高校講座や放送大学のように一方的に講義を行うのもオンライン学習。インターネットを使って行う調査活動や資料提示も、もちろんオンライン学習です。

 しかし双方向のオンラインは未経験で、2番目は義務教育の場合あまり関係ありません。したがってここではインターネットを利用した学習だけを“オンライン学習”と呼ぶことにします。今に限っての定義です。
 さらにその中で、“先生が自ら選択して、児童生徒にインターネット・コンテンツを提示するオンライン学習”ついては、あまり問題ないのではずします。

 私も見てきましたが、現代の先生たちは実に熱心にインターネットに向かい、価値の高いコンテンツを拾い上げてきます。探し出してきた資料は、大型の電子黒板や印刷物として児童生徒に提示されるのですが、すべては教師の制御のもとにありますから問題がないのです。

 うまくいかないのは、インターネットを使った調査活動です。
 
 

【賢いgoogle先生は日本の教育の敵】

 かつてはgoogle先生もさほど賢くなかったので苦労はなかったのです。

 例えば歴史の時間に、児童生徒が豊臣秀吉の刀狩りについて「なぜ農民はあれほど簡単に刀や剣を差し出してしまったのか」といった疑問をもったとします。すると子どもたちは図書館にいって資料を探したり、地域の歴史マニアを訪ねたり、博物館の学芸員に電話したり(もちろん事前に担任の先生が連絡を取ってあります)して、何とか答えを見つけ出そうとします。その間に友だちどうしで何回も話し合いを重ね、軌道修正をしながら探索し続ける、それ自体が学びです。インターネット検索も調査活動の一部ですが、昔は検索にも技が必要でなかなか答えにたどり着かなかった、だから自由にやらせられたのです。
 ところが最近のgoogle先生はすっかり賢くなってしまい、検索ワードどころか窓に疑問文をそのまま書き込んだだけでも、答えらしきものがバンバン出てきてしまいます。

「刀狩りで農民はなぜ簡単に武器を差し出したのか」
で約12,900 件のヒット。わずか0.41 秒しかかかりません。
(同じ検索をしても結果が異なることがあります) 
 検索結果の一番上は「日本史辞典.com」で、子ども向けのサイトですから分かりやすい言葉で丁寧に説明されています。最後まで読めば刀狩りの意義や実際がとてもよくわかります。
 検索結果の7番目はどなたかのブログでしたが、タイトルが「農民はなぜ文句なく応じたのか?豊臣秀吉が刀狩を成功させた秘訣」ですから、子どもは一発で飛びつくに違いありません。

 別の教科でも考えましょう。
 数学では「三平方の定理ピタゴラスの定理)の証明」というのが中学校の授業で最もダイナミックな課題のひとつです。他の人が思いつかないような新たな証明を求めて、必死に頭を働かせた記憶のある方もおられるでしょう。その証明を考える過程を通して、数学の楽しさ、証明問題の面白さを再発見することが企図されているのです。

 しかしそんなのもインターネットにかけると0.40秒で約60,000件のヒット。証明の仕方が幾通りも図や動画で紹介されていて、中にはたったひとつのサイトで9通りもの証明が出ているものもあります。
 徹夜で頭を悩ますなんて愚の骨頂、ネットで検索してノートに書き写せば宿題のでき上がり。ただし翌日、学校へ持って行ってもみんなが同じことをしてきますから、発表の順が回ってきても何の意欲も感動もない。そういうことになります。
 
 

【ネットが教師の仕事内容を変えた】

 現代の先生たちは、児童生徒が家で安易な学習のできない宿題を出すのに苦労しています。
「今夜は満月なので、月の模様をしっかり観察してノートに描き写してきなさい」
などとやったら、要領の良い子は家に帰って陽のあるうちにネットで画像を検索し、それを写して終わりにしてしまいます。
 大学の先生が学生のレポートを見るのに、どこかの論文のコピペでないか苦労してチェックしたり、コピー&ペーストでは書けないレポート内容に限定したりしているのと同じです。
 ネットのおかげで余計な苦労をさせられています。

 私たち文科省が過去四半世紀に渡って大旗を振って推奨してきた「生きる力をはぐくむ教育」――その核心である問題解決学習とネット検索は著しく背反する、それが学校で先生がコンピュータを使いたがらない大きな理由のひとつなのです。

 え?
 それの何が問題かって?
 オレなんか、半日官邸に詰めて官房長官や大臣の発表を待ち、あとの半日はネット検索であれこれ探して記事にしている、それでいくらでも記事は書ける、大昔の「事件記者」(テレビドラマの題名)じゃあるまいし、今どき足で稼いで記事を書く奴なんかいない・・・って?

 そういうあなたもこの場から退去してください(昨日から続いている言い方です)。
 文科省も学校も、あなたのような薄っぺらな人間を育てるために大金を使い、頑張っているわけではありません。
 
 

【T文科大臣、裏切る】

 しかし聞き及ぶところによりますと、大学ではこのところのオンライン学習でZoomなどのセッティングをしようとしたらダウンロードの仕方もわからない学生がいたようで、スマホなら開発者並みの技能を持つのにPCはまるでダメという人も少なくないみたいです。この点は文科省としても反省し、プログラミングとともにPCの基本操作も学べるよう、カリキュラムの組み直し考えていこうと思っています。
 
 以上、会見はこれで終了といたします。質問は受け付けません。時間がないので。
 このあと皆さんが退出したら、廊下に出した記者さんたちを招き入れてもう一度お話をしなくてはならないのです。

 正直言うと、あの人たちこそ私の味方なのです。皆さんも聞いていて思ったでしょ?
 もう生きる力だの総合的な学習だの言っている時代じゃないのですよ。体験中心主義もいい加減にしないと財政が破綻してしまう。理科室も音楽室もいらない! 小学校の理科専科や音楽専科、図工専科の先生たちをなくしたら、その人たちの給料数年分で児童生徒用のタブレットなんてひとりに2台以上も渡せますよ。

 だいたい問題解決学習をやれば、あるいは体験的な学習をやれば、総合的な学習をやれば、豊かな人間性が育つなんて、今、流行りの言葉で言えばエビデンス(科学的根拠)なんてどこにもないのですよ。むしろそんな学習をしてこなかった私たちの方がよほど人間性豊かじゃないですか?
 まったくアホらしい。

 さあお帰りください。私はあの人たちと話すのに忙しいのですから。
 
(この稿、続く)