カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「身の丈英語と翻訳機」~日本の英語教育について⑤

 日本の英語教育は目標が高すぎる上に個人指導に限界がある
 その点で自動翻訳機は革命的なのかもしれない
 
個人個人 その身の丈にあった教育をしてくれるからだ
 こんな素晴らしい未来があるのに
 古く正しい英語教育で子どもをいじめることはないだろいう

という話。

f:id:kite-cafe:20191115065522j:plain(橋の上の外国人観光客5」PhotoACより)

【学校に個人指導はできない】

 向田邦子のエッセイ集「眠る杯」の中に「銀行の中に犬が」という一文があります。

 かつて日本に赴任した外交官の夫に付き添って来日した妻が日本語学校に通っていたとき、「銀行の前に犬が寝ている」というセンテンスがあって、会話に使うならもっと適切なものがあるはずだと思っていたらそれから何十年もたってから、本国のイギリスで同じ言葉をメイドの口から聞いて大笑いしたという話が挿入されています。

 ただしこれは特異な例で、学校で学んだことがそのまま使われることはほとんどありません。学校教育というのはそういうもので、その人の個性、個人の必要性・生活感とは関係なく進められるのです。

 私自身のことを考えても、幼いころから厳つい顔で女の子に間違えられたことなど一度もないので、“I am a boy”を使ったのは中学校の1年生の最初の時だけです。幸か不幸かマジシャンにもなりませんでしたから、“This is a pen”も今は使いません。

 では実際に外国人とどんな話をしたのかというと、思い出すのは若いころ、京都の三十三間堂近くで金髪の女性をナンパしたことです。よせばいいのにキリスト教と仏教について語り合うという無謀な挑戦にはまり込んでしまい、私が「ヨハネ」だの「パウロ」だのの話をしているのに相手が「ジョン」だの「ポール」だのビートルズで返してくるのでさっぱりかみ合わなかったのです。
 「ヨハネ」と“John(ジョン)”、「パウロ」と“Paul(ポール)”が同じ人物だなんてしりませんでした。
 おかげで彼女との仲はいっこうに深まることなく、そのまま別れてしまいました。

 本当は優秀な英語教師が黒子のように張り付いて、横合いから教えてくれればよかったのです。、
「『ヨハネ』は英語で『ジョン』と言うのです」
「いま、こちらがおっしゃった『ポール』は『パウロ』のことです」
「つぎはこんなふうに返しましょう」
 それこそが生きた学習で身につくのも早いはず・・・と書いて思い出したことがあります。自動翻訳機です。
 これだったら個人のべったりと張り付いてその人に必要な単語やセンテンス、発音などについて教えてくれます。
 

【自動翻訳機の話】

 自動翻訳機については以前このブログでも取り上げました。

kite-cafe.hatenablog.com

 スマホアプリの「ボイストラ(Voice Tra)」は私も入れていつでも使えるようにしています。外国人と会う機会がないので一度も使ったことはありませんが(それが普通の日本人の生活です)。
 ただしスマホの自動翻訳はアプリの立ち上げに時間がかかり、急な会話ではけっこうなストレスのようです。そうなると専用機が欲しくなるのは当然で、この世界で圧倒的なシェアを誇る「ポケトーク」は今年の夏までに40万台を出荷、2020年の末には100万台に達すると言われています。2017年の発売ですからとんでもないヒット商品です。

 けれど専用機にも限界があります。日本語の構造からしてそうなのです。
 英語などと違って日本語は最後まで聞かないと肯定も否定もわからない言語です。例えば、
「ブログ“アフター・フェア”の管理者はとても頭の切れるナイスミドルでお金持ち、高学歴・高身長――の男を知っている」
 これは単に、私がそういう人物を知っているというだけの話ですが、英訳しようとしたら主語のあとが“knows”なのか”is”なのか、最後まで聞かないとわかりません。翻訳は一文が話し終わらない限り始められないのです。これでは厳密な意味で“同時通訳”というわけにはいきません。

 AIの世界は日進月歩ですから翻訳技術はどんどん高まっていきますが「時間差」は克服できない――たぶんこれが最後の障害になります。時間差のある限り、語学の堪能な人にはかないませんし、会話も豊かになりません。
 しかし同時に、私はこの「時間差」こそが日本人に有利に働くと考えているのです。
 

【翻訳時間差が日本人を鍛える】

 例えば私が観光地の土産物屋の店員になったとしましょう。
 店内できょろきょろしている外国人がいたとします。そんなとき、一昔前の私なら何もできず見守っているだけですが、今は翻訳機があります。そこでスイッチを入れ、「何かお探しですか?」と吹き込みます。すると翻訳機は“Looking for something?”としゃべってくれます。
 そこで翻訳モードを「英語→日本語」に切り替えて、相手に渡します。

 似たような状況は一日に何度も繰り返されます。その都度私は翻訳機を振り回しますが、一週間たっても同じことを繰り返しているわけではありません。
 いかな私でもそのころには「時間差」にじれて、“Looking for something?”を自分の口で言うようになっています。それまでにネイティブの発音を何回も聞いていますから、自信をもって話しかけられます。

 聞く方はどうでしょう?
 土産物屋に入ってくる外国人の目的は買い物に決まっていますから、私の“Looking for something?”に対する返答もほぼ似たり寄ったりです。したがって答えの英語も似たり寄ったりで、遠からず翻訳機を通さずに理解できるようになります。
 中には「あんな色でこんな形のナンチャラカンチャラ」と面倒くさいことを言う外国人もいるかもしれませんが、そんなときは再び翻訳機を取り出せばいいだけのことです。

 ここでなによりも大切なのは、「多少のトラブルがあっても翻訳機がある」という安心感です。外国人と話す上で最大の恐怖は、話しているうちに自分の語学力を越えた領域に入ってしまい、そこでアタフタするということですから、翻訳機さえれば不安になることもなくガンガン話しかけていくことができます。
 店員としての私のビジネス英語は飛躍的に高まることでしょう。3カ月もしないうちに翻訳機はズボンのポケットにしまいっぱなしになります。
 美空ひばりの歌で言えば、
「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃ翻訳機」(東京キッド)
というわけです。
 

【身の丈英語】

 さて、こうして外国人に怯えなくなった私は、次に何をするでしょう? 英語で接客することに自信を持った私は、同じことをフランス語でもやってみようとするかもしれません。あるいは外国人と話すことが楽しくなって、店員としての枠を越えてさまざまな会話を楽しみ始めるのかもしれません。
 自分のそのときの語学力――いわば身の丈に合った英語やフランス語を土台に、さまざまな可能性が生まれます。

 もちろん機械を使っている限りは細かなところでミスも出ます。
 「いらっしゃいませ」は翻訳機では“Welcome”あるいは“Welcome to our shop.”ですが、本場のアメリカではそんな言い方はせず、“Hello. How are you?”、あるいは“Hello.”“ How are you?”と一方だけであることが一般的だそうです。
 しかしそんなことを気にしていたら翻訳機を使った会話すらできず、英語力も育ちません。どうせフィリピンで英語を学んだ人はフィリピン訛り、オーストラリアで学んだ人はオーストラリア訛りの英語をしゃべっているのです(*)。
 翻訳機で鍛えた私の英語が“翻訳機訛り”というべき奇妙さを持っていても、大した障害にはならないはずです。それも私の身の丈にあった英語です。
*私はALTと英語で話していて、「お前の英語はへたくそだが、早口のオーストラリア人の英語よりはるかによくわかる」と誉められたことがあります。

 こんな素晴らしい未来があるのに、日本人の身の丈に合わない学校英語(正しい文法・正しい発音)で子どもたちを苦しめないでほしい。
 

【総合的な学習の時間外国語活動の功罪】

 昔の中学一年生は、目をキラキラ輝かせて初めての英語の授業を受けたものです。小学校6年の間に算数や国語で差をつけられても、英語はゼロからのスタートです。そこにも希望がありました。
 今の中一は何の感慨もなく最初の授業を受けます。未知の世界ではありませんから。
 中にはうんざりした表情の子だっている――。

 先週金曜日に発表されたFEランキング。2015年まで「標準的」だった日本の能力レベルが以後「低い」に下がったのは、総合的な学習の時間に行っていた「外国語活動」(2020年から始まる小学校英語とは別)のせいではないかと私は疑っています。初期のころに比べて、ずいぶん専門的になってきていました。
 この20年余りの間に、子どもたちの英語環境で変化があったのはそれだけです。順位だけでなく、実質的にも英語力が衰えているとしたら、原因はそれ以外考えられません。

(この稿、終了)