カイト・カフェ

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「全員が英語力を高める必要はない(使わない技能は失われる)」~日本の英語教育について④

 高卒段階で求められる英語力とはどの程度だろう?
 そう思って調べると 実はとんでもなく高いことが分かってくる
 英語で日常会話ができるように――
 ところで私たちは日常 家庭や学校、職場でなにを話してる?

という話。
f:id:kite-cafe:20191114070156j:plain(「訪日外国人 渋谷」PhotoAC より)

 

グローバル化と観光客対応】

 何も私は英語教育をやめてしまえと言っているのではありません。今のままで十分だ、これ以上は勘弁してほしいと言っているだけなのです。

 そもそも政府や社会は国民にどの程度の英語力を期待しているのでしょう。
 11月8日付の文春オンラインの記事「『英語のできない英語教師』に縛られ英語ができない“身の丈”ジャパンの諸問題」で筆者は、
「とはいえども、日本人はグローバル社会への対応や、日本に観光に来る外国人とのコミュニケーションを取るうえでも、きちんとした英語教育をする必要に迫られている」という当たり前の大前提が根底にある
と言っていますが、「グローバル社会への対応」と「日本に観光に来る外国人とのコミュニケーション」ではまったく次元が違います。

 後者についていえば今だって観光地の土産物屋やレストランでは対応できているはずです。
 商品の場所を問われたら答えて、それがどんなものか説明でき、値段を提示してつり銭が出せる、それだけのことですから高校生のアルバイトから99歳のお婆さんまで、やれるひとはやっている。
 観光案内所では道順や交通機関の発着時間、お薦めの観光地について説明できればそれで終わりです。
「昨日のボクシングの試合はすごかったね」とか、「ディケンズの『二都物語』の書き出しはなんだったっけ?」とか「お嬢さんの通っている大学はどこでしたっけ?」などといった話題は出てきようがありません。

 

【日常会話というとんでもなく高い目標】

 ところが「グローバル社会への対応」となると話は違ってきます。まずそこでは商品やサービスのすべてについて質疑応答ができなくてはならず、商取引の用語も使いこなせなくてはなりません。期日や量の取り決めや注意事項、法律問題など、すべての専門用語と用法に精通しなくてはならないのです。交渉の微妙なやり取りは日本語だって大変です。

 さらに“接待”となると絶望的に大変です。食事の席にしろ酒席にしろ、そこではありとあらゆる話題――先ほど言ったボクシングの話だの文学のことだの、相手の家族のことや趣味の話などありとあらゆる話題の出てくる可能性があります。それのいちいちに、ある程度は答えられなくてはなりません。

 「グローバル社会に対応できる英語力」というのは、私たちが日常、日本語で話したり聞いたり読んだり書いたりすることを、英語でもできる能力ということになります。もちろん高卒段階では専門的な業務に関する部分は省いても構いませんし、日本人だということで2割引きくらいにしてもいいと思いますが、それにしてもとんでもなく高い目標と言えるでしょう。
 中学生の保護者が「せめて英語で日常会話ができるくらいには英語力を高めてほしい」と言うとき、私が怯えるのはそのためです。

 政府が高校3年生に求める力も、そのレベルであることは明らかです。
 高等学校学習指導要領の「第8章 外国語」「第1款 目標」には、次のような記述があります。
(2) コミュニケーションを行う目的や場面,状況などに応じて,日常的な話題や社会的な話題について,外国語で情報や考えなどの概要や要点,詳細,話し手や書き手の意図などを的確に理解したり,これらを活用して適切に表現したり伝え合ったりすることができる力を養う。
 来年度から英語民間試験を導入して計る予定だった高校三年生の英語力というのは、こういうレベルのものだったのです。

 

【大丈夫。学習の目標など達成されたためしがない】

 もっとも指導要領の目標がほとんど達成されたことのないのも事実です。

 私は高校教師の経験がないので中学校で申し上げますが、学習指導要領の目標をおおむね達成できた子――わかりやすい言い方でいえば実力テストで90点以上を取れる子――は、ほんの一握りしかいません。すべての教科で達成できた生徒(つまり90点以上をとれた子)は、田舎ならまず間違いなくトップ校に合格できます。
 そのトップ校で引き続きすべての教科で90点以上を取り続ける生徒がいたら、いかに田舎であっても東大・京大が見えてくるエリートです。
 学習指導要領の目標というのはそれくらいレベルの高いものなのです。

 英語について言えば、高校三年生で苦労なく英語で日常会話ができる子はほんの一握りしか生まれません。すべての子が目標を達成するなど夢のまた夢で、実際には大半の子が目標に到達できません。とんでもなく遠い子もたくさんいます。
 つまり英会話はできない。文書のやり取りも難しい。

 再三引用する11月8日の文春オンラインは、
 本来は公教育で充分に英語が使えるようになるべきだ、だからこそ大学受験の科目にするのだ、というのは議論としてあります。
などとおっしゃいますが、まさに机上の空論で、大学入試は十分な力がついているかを確認するものではありません。他の受験生よりも成績が良ければいいだけで、教科の目標を達成できたかどうかは問わないのです。できるはずのないことは、引用記事の「英語」の部分を他の教科・単元に置き換えてみるとすぐにわかります。
 本来は公教育で充分に微分積分が使えるようになるべきだ。
 本来は公教育で充分に化学式が使えるようになるべきだ。
 本来は公教育で充分に漢文が使えるようになるべきだ。

 

【子どもを圧迫する上下からの圧力】

 もちろん義務教育を無限に延長していけば、いつか全員が目標を達成する日が来るかもしれません。
 しかし現在のように6・3・3制のまま12年目の出口で十分な力をつけろと言われれば、学習圧力は下に降りて来ざるをえません。それぞれの学年での目標を高くし、さらに下の学年でも予備学習を充実させるということです。
 実際に小学校英語はそうした要請によって生み出されました。

 一方、これはあまり意識されないことですが、学習圧力は下からもきます。
 生活科です。

 野山に遊んだり木に登ったり、秘密基地をつくったり、傍から見ていると何をしているのかわかりませんが、これは「幼児教育のやり直し」なのです。
 昔の子はそれこそ「野山に遊んだり木に登ったり、秘密基地をつくったり」、十分に自然と触れ合い、モノをつくり、体の機能を高めてから小学校に上がってきました。それを今は小学校でやり直すしかない。
 おかげで小学校1年生・2年生の理科・社会科はなくなってしまい、その分3年生以上の理科・社会科が苦しくなりました。

 上からの圧力と下からの圧力で、小学校のカリキュラムは満杯です。そんなわけで20年度から導入される「小学校英語」「プログラミング学習」も時間割の中に入らず、「45分の授業を9分ずつに切り分けて、休み時間等をつぶして1週間で45分行う」とか「特設の集中授業を行う」といったいびつな形でしか実施できません。
 この上、
「最近の子どもの近視は危機的な状況で、将来失明する可能性がある子は5%。だから小学生の間は1日2時間以上、屋外で過ごすことが必要」(事実そういう話はあります)
などといった話が持ち込まれたらどうするのでしょう?

 

【全員が英語力を高める必要はない(使わない技能は失われる)】

 週1時間、年間35時間の小学校英語で日本人の英語力が伸びるはずもありません。数年を経ずして韓国並みの週2時間、中国並みの週4時間という話も出てくるに違いありません。
 どこにそんな時間があるのか。
 おお! そうだ。昨年度来、熱中症予防のために全国の学校にエアコンが入り始めている。この際、夏休みをなくして勉強させたらどうか!

 どうかそんなふうにならないように。
 どう転んだところで日本人の大半が英語を自由に操る時代など来ないのです。学校で力をつけたところですぐに忘れてしまいます。
 使わない技能は失われる――それは微分積分も漢文も、摩擦係数も化学式も全部同じなのです。

                              (この稿、続く)