カイト・カフェ

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「カウンセリングが日本語にならないわけ:日本語にした方がいい言葉」~そろそろ外来語に疲れてきた②

 日本に概念がないので外国語のまま、というものもある。
 定着するまでに時間がかかるか、消えてしまう言葉である。
 しかしコンピュータ用語のように圧倒的に数が多いと、
 圧倒されて太刀打ちできない、
という話。(写真:フォトAC)

【カウンセリングが日本語にならないわけ】

 外国から輸入されたときに日本になかったから外国語のまま、というのは事物に限りません。概念もそうです。その代表が「カウンセリング」「カウンセラー」です。
 教育心理学における私の師匠筋のひとりは、
「カウンセラーの日本語訳は《人格者》でいい!」
などと言っていましたが、訓練を受け、資格を持ったカウンセラーよりも村の古老の方が相談相手として優秀だったりすることに苛立っての発言です。古老が悪いのではなくて、カウンセリングの成果が薄いことに対する苛立ちだと思います。

 しかし考えてみると、そもそも日本人の文化の中に「語ることで心が浄化し、語ることで変化の道筋が見えてくる」というものがあったかどうか、私は、はなはだ疑問に思っています。
 昔の日本人が精神的な問題を解決しようとしたら、お坊さんや神主さんに話を聞いてもらうのではなく、座禅を組んだり滝に打たれたり、読経をしたりと、そういった精神修養をしたと思うのです。自己研鑽のための教養や時間のない庶民は、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えたり「南無妙法蓮華経」を繰り返したりといったやり方で、精神を浄化し、それから「しょうがない」と前向きな諦念をもってあらたな道を歩き始めた――それが古来の日本人のやり方だったと思うのです。
 
 もちろんカウンセリングは現代の日本人にとって有効な精神療法のひとつです。しかし教会の告解室でキリスト教の信者が罪を告白し、司祭が赦しを与えるということの重みは、信者でない日本人には分からないのではないか、したがって告解に基礎を置くカウンセリングは、普通の日本人の場合、欧米人やキリスト教徒の日本人ほどには効果がないのではないか、と私は疑っています。
 
 最近やたらと外国語で紹介されるその他の概念も、それが外国語であり続ける間は日本に定着しない、定着しても本来の意味とは違ったものになってしまう、もしくは徹底させないために外国語のままにしてある、そういう場合がたくさんあるのではないかと思うのです。
 もし可能なら、そうしたものは日本語に置き換えておいた方が安全ではないかと私は思ったりしています。

【日本語にした方が良いものが山ほどある】

 アカウンタビリティ(説明責任)、コンプライアンス(法令順守)、ハラスメント(いやがらせ)、こうした単語を英語で語らなくてはならない理由が、私にはわかりません。ハラスメントなどは「いやがらせ」と言っておけば概念が無節操に広がることはなかったと思うのです。
 
 日本語にすると概念が変わってしまうというなら、アカウンタビリティにもともとある「経営者が株主・投資家に対して企業の状況や財務内容を報告する義務」という意味を残す理由を聞きたいと思います。

 コンピュータはすでに「電子計算機」ではないから「コンピュータ」がふさわしいという人は、コンピュータが“Electronic Computer(電子・計算機)”の省略形だということを忘れているのです。すでに「電子計算機」でないというなら「コンピュータ」ではなく、あらたな日本語を考えるのが良い、適切な言葉が見つからなければ、漢字の先輩国・中国に教えてもうという方法もあります。「電脳」なんて、すごくいい言葉のように思うのですがいかがでしょう。
 
 明治の文化人は本当に偉くて、多くの外国語を日本語に変換し、その一部は漢字のふるさと中国にも輸出されています。
「美術」「文化」「文明」「社会」「科学」「空間」「時間」「恋愛」「不動産」「不景気」「常識」「法律」「概念」「哲学」「民族」「文明」「思想」「共産主義」「人民」
 これらは全部その時代につくられた造語です。現代でもそれをやればいいのですが、流入する外国語が多すぎて追いつきません。

【コンピュータ用語が苦しい】

 コンピュータ用語などは訳している暇がありませんし、訳すと今度は外国人とのやり取りに差し支えます。ですから基本的にすべて英語のままです。
 30年ほど前、フランスはコンピュータ用語をすべてフランス語でやるように法律をつくりました。そんなことをしていたらフランスのIT産業は大きく後れを取るぞと言われたものですが。果たしてどうだったのでしょう。経済発展という観点からは愚かな決断かと思うのですが、それにしてもITの世界に外国語は多すぎます。
 
 「デバイス」が情報端末や周辺機器といった、コンピュータにつなげる機器の総称だと、気持ちになじむのにずいぶんと時間がかかりました。頭ではわかるのですが、気持ちになじまないのです。
 「ダウンロード」と「インストール」も今から考えるとけっこう難しかった――。
「ダウンロードしてください(言うまでもなく、そのあとインストールするのですよ)」
も、
「インストールしてください(もちろんその前にダウンロードしなくちゃ始まりませんけど)」
も両方あったからです。

 遡れば「アドレス」という言葉すら最初は戸惑いました。「ネット空間における住所」だという説明を受けると、自然と頭は何千本もの線で繋がった空間のいずれかを探そうとします。それがしっくりこない。しっくりこないわけです。「住所」というから空間を想定してしまうのです。
「アドレスというのは、個人名(仮名アリ)の後にアットマーク(@)をつけて、さらにそのあとに所属を記した『メールの宛先』のことだよ」
と言えばすんなり入ったのです。「アドレスを教えて」といわずに「メールの宛先を教えて」といえば私のような年寄りにも簡単に通じました。
「アカウント」という言葉は、今でも理解できている気がしません。

 そこへwi-fiだのAOSSだのCAIだのといった略称。そうかと思とbluetoothといった謎の言葉(青い歯?)。
 ついて行こうとは思いませんが、もう少し、何とかならないでしょうか?
(この稿、続く)