カイト・カフェ

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「心のサインの発生装置」~校則の話④

 「子どものサインを見逃すな」と言う
 しかし教室というところは
 有象無象のさまざまなサインが同時に出ている場所なのだ
 その中から 重要なサイン 危険なサインを紡ぎ出すには
 サイン発生装置・識別装置が必要になってくる
 “校則”は その装置の 重要なひとつだ

というお話。

f:id:kite-cafe:20190905064325j:plain(マイルズ・バーケット・フォスター 「ブランコ」)

 

【子どものサインを見逃すな】

 新学期が始まって、心配された通り、子どもの自殺に関わるニュースがいくつか上って来ています。不登校に関する話題もちらほら――。

 こんなとき、よく使われる言葉に「子どものサインを見逃すな」があります。分かるような分からない言葉です。

 私はかつて、サイトの方でふざけ半分にこんなふうに書いたことがあります。


「子どものサイン」

 子どもの自殺やイジメ事件に際して叫ばれる標語。
「子どものサインを見落とすな」といった使い方をする。見落とした教師はバカ扱いされるだけでなく、ほとんど鬼畜のように言われる。

 ただし現場では30数人が一斉にサインを出しているわけで、これを見分けるのは容易なことではない。
「オーイ、オレ勉強わかんねェヨー」
「ハラ痛いヨー」
「私、非行に走っちゃいそうヨン」
「腹へったヨー」
「失恋したゾー」
「オシッコしたいヨー」
「ウチで夫婦喧嘩やってるよー」
「早くし帰してくれネェとテレビ始まっちゃうヨー」

 それこそ応援団が全員監督で、一斉に別々のサインを出してるプロ野球のようなものだ。

   (「ああ言えばこう言う辞典」《教育用語症事典》

 ふざけすぎかもしれませんが、一面の真理でもあります。

 特に中学校の担任の場合、下手をすると一日で生徒と顔を合わせるのは登下校の会と給食の時間だけ、ということもあります。自分のクラスの授業が1時間もない日があるのです(特に週一回しか授業のない美術の先生や技術家庭科の先生は大変です)。しかも給食の時間などは、生徒の日記を見て宿題をチェックしたりしていると、ロクに顔も見ないまま終わったりします。

 その短い時間で、どうでもいい有象無象のサインの中から、重要なもの、危険なものを紡ぎ出して反応するのは至難の業。しかも失敗すると取り返しのつかないことだってあります。
 そこで教師たちは、多くのサイン発生装置・識別装置を教室に置こうとするのです。
 
 
 

【日記と親衛隊】

 日記は有力な装置のひとつです。
 そのほとんどは大したことが書いてありませんが、「大したことが書かれていない」ということ自体が、「今のところ大丈夫です」という指標になります。

 深刻な相談が書かれている場合もあれば、それまできちんと出していた子が突然提出しなくなる、内容がいい加減になるという形で危機を訴えてくることもあります。
 毎日40人近い生徒の日記に目を通して、一行なりとも返事を書かなくてはならないのですから大変な仕事ですが、教師はこれを手放しません。

 学級内に担任の親衛隊のような組織をつくってそこから情報を得る教師もいます。組織づくりは簡単で、クラス全体に向かってこう言うだけです。
「困ったら先生のところにおいで。自分のことだけじゃなくて、友だちが困っていて、その子が私のところに来られないようなら、キミが代わりに来ればいい」
 それだけで情報を寄せてくれる子が出てきたりします。もちろん絶大な信頼を集める偉大な教師だけがなせる業で、私のような平凡な教師にできることではありませんが。

 平凡な教師は、したがって普通“校則”に頼ることになります。校則”が実に優秀な“心のサイン発生装置”として働くからです。
 
 
 

 【服装の乱れは心の乱れ】

 「服装の乱れは心の乱れ」という言葉は、かつて教師によって好んで使われ、それだけに評判の悪いものでした。服装が乱れても心が乱れるとは限らないというのです。

 もちろんそうです。ただそこには誤解があって、「服装の乱れは心の乱れ」は、本来「心が乱れるとそれは服装(外見)に現れるから、注意して見ておきなさい」という意味なのです。

 経験的に言えば、学業や部活動に熱中している生徒は、服装や外見のことにあまり気をつかいません。彼らは忙しいのです。
 また、あまり忙しくない生徒の大部分も、校則に多少の不便や不合理を感じることはあっても、教師や親と対決し、同級生や世間の冷たい視線に耐えてまでそれを行なうことはしません。子どもだって時間にもエネルギーにも限界があり、“校則”に挑戦することはけっこう面倒だからです。
 しかしそれにもかかわらず、その“面倒なこと”にあえて挑戦する子どもがいます。彼ら彼女らは、どんな子なのでしょう?

 服装に異状が生じたり髪が赤くなってきたら、普通の教師はとりあえずその生徒の心を怪しみます。この子は髪を染め服装をいじることで何を表現しているのだろう、と。

 「勉強が遅れ始めたよ」「身が入らないよ」と叫んでいるのかもしれません。
 あるいは「学校内でクソ面白くないことがあるんだ」「気に入らないことがあるんだ」ということかもしれません。
 「『その他大勢』になるのはイヤなんだ」「目立っていたいよ」というサインかもしれないし、「ボクを見ていて、じっと見ていて、ボクだけを大事にしていて」ということかもしれません。
 「今、家庭が大変なことになっている」「学校の外に新しい人間関係を持った」「ヤバイ人から声をかけられている」
 そういった危険な信号かもしれません。

 経験を積んだ熱心な教師なら、必ずそこになんらかの問題を感じ、対処、援助しなければならないと考えるでしょう。校則はしばしばそうした状況を生み出します。まさに「心のサイン発生装置」として働くのです。

 遅刻が多くなる、教室に遅れてくる、挨拶をおろそかにする、学校に余計なものを持ち込む、立ち入ってはいけない場所に立ち入る・・・そうしたこともみな同じ。

 同時に40人近い児童生徒を前にして、その気持ちの揺れを発見しようとすれば、サインの発信装置はできるだけたくさんなくてはなりません。
 多くの教師は「サイン発生装置」などといった明確な言い方をしませんが、校則がさっぱり略化されない背景には、これを手放すことに不安な多くの教師の直感があるのです。

                    (この稿、続く)