カイト・カフェ

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「勉強が苦手な人間は、学校で楽しく遊んでいればいい・・・のか?」~権威や権力がなくなることへの期待と不安⑦

 何を書いているのかよくわからなくなった。
 しかたがないので箇条書きにしてみるが、
 それにしても本当に思いを詰め、
 文章を書き続ける頭の体力がなくなった・・・。
 という話。(写真:フォトAC)

【文章を書いているうちに迷子になりました】

 文章を書くための体力というのがあって、その日その日の主題が頭から離れないようにしっかり保持し、しかも文章が野放図に好き勝手に進まないよう力づくで押さえ、あちこちの作文ルールを気にしながら、リズムを失わずに最後まで頑張る――その力が、ここの所ずいぶんと衰え、特に先週から今週にかけては押さえが利かずにダラダラと過ごしています。
 
 毎日の文章がその日の気分で動かぬよう、サブタイトルで縛って1番・2番・・・と番号をふっているのですが、今週はもはやどういう方向で書こうと思っていたのか、だいぶ怪しくなってきました。
 そこで仕方がないので、箇条書きで整理し直すと・・・。

【一週間の論点を箇条書きで押さえてみる】

  1. エンターテインメントの世界ではジャニーズ事務所が、歌舞伎界では澤瀉屋がそれぞれ内部から出た錆によって権威を落とそうとしている。いったんタガが外れると、あれほど権力におもねっていたマスコミも、川に落ちてきた獲物に食らいつくピラニアのように、容赦なく歯をむき出しにし、肉を食いはがそうとする。しかし正義を成したいなら、もっと昔に機会はいくらでもあったはずだ。

  2. そもそも私はマスコミが振りかざす“正義”に不信感を持っている。
     とにかく自分に害が及ぶかもしれない上記のような場合を除けば、権威・権力のありそうなところには、事の良し悪しも考慮せずに必ず噛みつき、引き下ろそうとする。
     その態度はきわめて価値破壊的だが、破壊したあとのことはまるで考えておらず、実際に存在するかどうか分からない「近代的市民(自主的・主体的に物事を判断し行動に移せる人々)」に丸投げして頬かむりする。しかしそんな「近代的市民」は世の中にほとんどいない。多くの人間はマスコミが期待するほどには強くないのだ。

  3. 例えば学校を見てみるがいい。いまや校長は雲の上から降り、学校教育の先兵として最前線で働くことが求められるようになった。おかげで現場は大変だ。日々児童生徒・保護者と戦っている現場教師からすれば、10年も最前線にいなかった校長が目の前でうろうろしているだけでも迷惑なのに、「最後の砦」としての役割も果たさず、時にはあっという間に討ち死にしてしまう。これでは兵卒は安心して戦うこともできない。

  4. 昔の学校には校長を祭り上げておくさまざまな仕掛けがあった。都都逸
    「校長、校長と、威張るな校長。校長、教師の成れの果て」
    などとあるように、校長だからというだけの理由で本気で尊敬する人など一人もいなかったが、それでも教師たちは皆、あたかも尊敬しているかのようにふるまった。その擬制が便利だったからだ。
     校長が権威である限り、“権威”から誉められたら子どもは喜ぶし、いざというとき”権威“から叱ってもらえば叱責の重みも違ってくる。保護者との対応でも、自分に打つ手がなくなったら、学年主任を出し、教務主任を出し、教頭を出して、最後に校長にまとめてもらえばよかった。
     子どもという弱い存在が、学問という苦しい仕事を続けて行くうえで、権威を始めとする飴と鞭はどうしても必要なのに、マスコミも社会も、学校からそれを奪うのに忙しかった。

  5.  かつて学校は子どもたちに「児童・生徒(学問をしようという意志のある子ども)」であることを求めることができた。学徒としてふさわしい服装や態度・発言を求め、そうした鎧で身を固めることによって、子どもたちをさまざまな誘惑から守ることができた。だから学徒であるという自覚は、苦しい勉学を続けて行くうえで、絶対に必要なものだと、自然に思っていたのだ。
     しかし時代は変わった。子どもたちの帰る家庭を思い浮かべてみるがいい。家の中にラジオくらいしかなかった昔と比べ、今や家庭内に子どもの遊び道具は山ほど揃っている。インターネット動画、テレビゲーム、スマホ、テレビ、マンガ、オモチャ・・・。そんな中で自ら進んで時間を管理し、勉学に勤しめるのはほんのわずかな子どもだけで、子どもの勉学を管理できる保護者もまた少ない。
     だからせめて学校くらいはアカデミズムの雰囲気溢れる場でなくてはならないのだがどうだろう? 学校は勉強する雰囲気で満ち満ちているだろうか?

  6. 騙されてはいけない。実はマスコミが教育問題で頭に浮かべているのは、すべての児童生徒ではなく、どんな状況でも自らの学習を手放さず、権威からも校則からも圧力からも自由でありながら、なおも自己実現のための努力を惜しまない、そんな一部のエリートだけなのだ。
     なぜならマスコミ関係者の周囲には、小中学生のときも高校生時代も、そんなエリート連中しかいなかったからだ。もちろん勉強とまったく相性の悪い同級生もいたが、その子たちはたいてい彼らの友だちではなかった。だから勉強ができない子たちのことはまったく頭に浮かんでこない。
     私の言うことを疑うなら彼らの学歴を調べてみよ。その出身高校の偏差値を照会してみよ。その子たちは多かれ少なかれ、気持ちよく勉強をして勉強で自己効力感を得られる子たちばかりなのだ。だから自戒を込めて、平気でこんなことを言う。
    「先生の言うことを何でもハイハイと、その通りやっているような人間ではだめだ」
     自分が普通のエリートでしかないことが悔しくてしょうがないのである。それしか頭にない。


    【勉強が苦手な人間は、学校で楽しく遊んでいればいい・・・のか?】

  7. もちろんマスコミも勉強と相性の悪い子たちのことをすっかり忘れたわけではなく、校則問題などではたびたびこの子たちを登場させている。自分たちは勉強で自己効力感や有能感が得られたが、勉強が苦手な子だって学校で生き生きと生活を送る権利がある。だとしたらまず、この子たちを校則の檻から解き放ってやる必要がある――あたかもそんなふうに考えているみたいだ。もしかしたらマスコミ関係者は、一種の贖罪意識から学校問題に取り組んでいるのかもしれない。しかし教師は違う。

     教師はこんなふうに考える。
     放っておいても勉強をする子は放っておけばいい。教師が意識しなければならないのは勉強が苦しくて苦しくて仕方のない子たち、放っておけば絶対に勉強しない子たち、誰かが支援をしないと基本的な学力さえつけられないだろう子たちである。
     彼らこそしっかりと見守ってやる必要であり、学習の枠組みを与えてやる必要である。時には叱咤し、激励し、フラフラと遊びに向かう体と心を抑えてやらなくてはいけない。この子たちにこそ校則は必要で、社会的誘惑はできるだけ遠ざけておきたいのだ。
      ツーブロックなどどうでもいいだろう、わざわざ外から見える色付きの下着をつけることはないだろう。いまのお前たちにはやらなくてはならないことがある、それをきちんとやらなければ、あの調子のよいエリートたちはどんどんお前たちを置いて行ってしまうぞ、と教師たちは怯えているのである。
     それなのに世間やマスコミは、なぜこの子たちを誘惑の多い世界から守ろうとしないのだろう?私にはそれが分からない。

と、そんなことを書きたかったのに、一週間以上かかっていまだに周辺を歩き回っているのです。本当に文章を書く体力が衰えている。

(この稿、ほんとうに明日が最後)