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「心の“見える化装置”としての制服」~指導助言の質を高める方法③

 一クラスに30人も40人もの生徒がいる中で、
 問題を抱える子を見つけ出すのは容易ではない。
 そこで見えない心の中を「見える化する装置」が必要になる。
 それが制服を始めとする外見に関わる決まり事だ。
 という話。
(写真:フォトAC)

【心の“見える化装置”としての制服】

 「服装の乱れは心の乱れ」という言葉はよく誤解されますが、「服装が乱れてくると心も乱れてくる」という意味ではありません。「心が乱れるとそれが服装などに現れるから、注意して観ていましょう」という意味です。要するに服装を「心の“見える化装置”」として考えるわけです。

 具体的に言えば、勉強やスポーツに熱中し、あるいは生徒会や学校行事、学級内の人間関係に満足しているような子は服装になどに頓着しません。少なくとも親や教師と対立してまでも押し通さなくてはならないほどのこだわりはないのが普通です。とにかく彼らは忙しく、ファッションなど気にしている暇がないのです。

 ところが学校生活のどこか、または全部に問題が生じると、一部の子どもたちは「外見」で自己表現を始めます。勉強やスポーツ、生徒会や行事、あるいは校内の人間関係--つまり「知」「体」「徳」という学校生活の王道で存在感を示そうとすると、才能やかなりの努力が必要です。しかし外見だと手っ取り早く他の生徒からの差別化が図れます。その際は《親や学校そして校則を突破する》という、ある意味で普通の児童生徒にはできないことをするわけですから、有能感や自己効力感を刺激されることも少なくありません。
 ただしその変化はゆっくりしたもので、「君子は豹変する」のようにある日突然、全面的に行われるのではなく、小出しにされますからこちらにもまだチャンスがあります。教師はできるだけ早く気づいて、声をかけてあげなくてはなりません。その子が、
「学校生活がうまく行っていないよ」
「勉強が遅れ始めたよ」
「友だち関係がぎくしゃくしてきた」
「家庭に問題が生れた」
「ずっと知らなかったけど、オレん家(ち)、たいへんなことになってた」
「悪い先輩に声を掛けられてちょっとヤバイ」
と、心の中でそんなふうに叫んでいるのを、服装や髪型やアクセサリーで「見える化」してきたのかもしれないからです。
 担当の教師ならすぐに呼んでじっくり話を聞き、叱るべきは叱り、誉めるべきは誉めて、丁寧に問題解決を図り、その子を育てて行かなくてはなりません。

【失われ行く学校の“見える化装置”】

 もっともここ20年あまりの間に制服は「心の“見える化装置”」として力をすっかり失ってしまいました。というのは平成の半ば以降、多くの高校が制服を自由化し、現在残っているものは制服でステータスを示せるエリート校や制服自体が人気の女子高、そしてブレザー型に変えてしまった高校だけといった感じになってしまったからです。
 中学校でも旧来の学生服やセーラー服をブレザータイプに変えてしまい、制服で他の子と差別化を図るのが難しくなってきました。長ラン・短ラン・ボンタン・ミニスカといった分かりやすい指標がなくなり、制服をいじることで果たしてきた差別化や自己表現が難しくなってきたのです。時代として、学校全体が落ち着いてきたこともあるでしょう。

 今はただ、髪型だの髪色だの、あるいは下着の色だのがかろうじて「心の“見える化装置”」としての機能を担っていますが、それも早晩なくなって行くでしょう。教師にとっては生徒の心の動き知る便利な手がかりですが、生徒からすれば自由を制限された上に心の中まで見透かされるなんてとんでもない話です。子どもたちが最悪だと考えるのは当然です。ブラックと言われても仕方がないでしょう。

 私が教員になったころは多くの中学校で男子は丸坊主ということになっていました。この丸坊主、今から考えればとても便利で、知らせてくるのは心の乱れだけではありませんでした。親の意識や関わり方、あるいは経済状態ですら見えることがあって(床屋代を出さない、あるいは出せない親がいる)教師はそれを見ながら対応すればよいので、とても楽だったのです。
 楽というのは単にやり易いという意味ではなく、早く手をつければ簡単に終わることもたくさんあります。むし歯もC0(シー・ゼロ)くらいで歯医者に行けば一回で済むのに、C3~C4になるまで待ってからだと何回も通わなくてはならなくなりお金もかかります。しかもC0のように、ほとんど元通りに近い状態には戻るわけではありません――それと同じ意味で「楽」だったわけです。

【「欧米では~」の話】

 服装や髪型、アクセサリーに関する話題になると、繰り返し「欧米では~」という話になりますが、「多民族国家」「人種のるつぼ」と呼ばれる欧米諸国では、そもそも学校が外見を統一することが不可能なのです。敬虔なイスラムの女の子は髪を覆って登校することをやめないでしょうし、キリスト教徒の子の中にはロザリオを絶対に手離さない子もいるでしょう。ブレスレットだのタトゥーだの、細かなことを言い出だしたら切りがありません。それが欧米の学校の、外見に関する指導がゆるい理由のひとつです。
 もうひとつは欧米の学校が子どもの内面に関わる仕事をしないで済むからです。道徳に関わる指導はキリスト教会やモスクが、あるいは保護者が、犯罪に関わるものは警察や保護者が責任を負うべきもので、学校は保護者に通報するだけで直接それらにかかわりません。欧米の教師は子どもの心のあり方にさほど興味がないので、服装やアクセサリーにも寛容でいられるのです。その子の人生はその子自身と保護者の問題であって、教師の関わることではないと考えるからです。
(この稿、続く)