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「いじめはなくなることも減ることもないが、諦めることもない」~不登校もいじめも過去最多について④

形式的にも実体としても、いじめはなくなることも減ることもない。
中身は刻々と難しくなっていく。
しかし諦めることもない。
私たちにはまだまだやれることが残っている。
という話。(写真:フォトAC)

【「いじめ」も「いじめもどき」も、なくなることも減ることもない】

 学校からいじめをなくすことができるのかといえば、まず不可能です。いじめ防止対策推進法におけるいじめの定義が「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」である限り、絶対になくなりません。学校の重要な任務のひとつが人間関係の教育(いわゆる道徳)である以上、さまざまな活動の中で「心理的物理的影響を与える行為」が繰り返され、その中で児童生徒が心身の苦痛を感じる場合はいくらでもあるからです。教科教育、総合的な学習の時間、児童生徒会、学校行事、部活動――濃い人間関係を必要とする場面、つまり児童が心身の苦痛を感じるような状況は、教育によって意図的につくられています。その子が耐えて工夫をし、成長につなげるか、状況を狂わせて苦しいと叫んで訴えるかは紙一重です。
 
 そのうえ文科省や教委がいじめの報告事例が多い学校を「極めて肯定的に評価」し、「いじめを認知していない学校にあっては、・・・解消に向けた対策が何らとられることなく放置されたいじめが多数潜在する場合もあると懸念している」という以上、学校ができるだけ多く報告しようとする動きを改めることはありません。
 少子化で学校数も減っていますから現在の61万5千件が500万件とか1千万件ということないでしょうが、100万件くらいには増え続けても不思議はありません。そのうちの大部分は、成長の過程ではありがちなちいさなトラブル――、私の言う「いじめもどき」です。
 もちろん「もどき」でも教師は対応しますし、そうした観点から児童・生徒を監視することもやめはしません。その結果、力が分散して重要な棚上げになったままだったとしてもです。

【いじめの重大事態も、定期的に繰り返されることになる】

 だったらせめて子どもが自殺するような重大事態だけはなくすようにしたい――それはすべての人の願いでしょう。しかしこれもかなり難しい。

 理由は三つあります。
 ひとつは、「現代のいじめが陰でしか行われなくなっている」からです。よく言われる「陰湿化」です。
 前にも申し上げた通り、殴ったりけったり悪態をついたりといった「目に見えるいじめ」は学校によってほぼ完全に制圧されています。その結果、本格的ないじめは大人の目の届かないところで行われ、表では加害者も被害者も何食わぬ顔で生活するといったことが平然と行われるようになっています。大人の目には仲良しとしか見えない場合も少なくありません。感のいい大人が怪しんで声を掛けても、被害者が率先して否定するようでは指導の手はなかなか入って行きません。
 
 第二に、前項と重なることですが、いじめの重大事態が極めて閉鎖的な仲間内で行われることが多いという点です。
 いじめを考える上で人間関係の経年変化は見落とされがちな問題です。最初からいじめの加害者=被害者の関係であるのではなく、まず対等な仲間関係があり、やがてジリジリと変化して、気がつくといじめの関係になっている、そんな例が少なくないのです。
 いじめの加害者が被害者を羽交い絞めにしている場面に出会っても悪ふざけにしか見えないという誤解は、関係が変化していることに気づかないことから起こるものです。表面上は昔とまったく変わらないのに、当事者の間で意味するものはまったく違ってきているのです。
 
 第三に、のちにいじめに至るような仲間関係は最初から歪んだ性格を持っており、大人、特に教師との間に緊張関係を持っている場合が少なくないという点です。万引きグループだったり深夜徘徊を繰り返す仲間だったり。したがって大人との間で、互いに素直になれません。
 そうなると子どもは困っても声を上げられませんし、大人は心配しても声を掛けるタイミングを失いがちです。さらに時間がたって状況が悪化しても、いまさら相談にも行けないし、大人もいまさら声もかけられないという悪循環にはまり込みます。そして数少ない機会を逃してしまう。SOSを出したのに先生は対処しなかったというのは、たいていがこの場合です。

【解決の方法がないわけではない】

 重大事態に陥るいじめ問題では、大人が単独で事態の重大性を認識することは極めて困難です。重大になればなるほど子どもは隠し事態を粉飾します。したがって私たちはさまざまな網を張って待ち構えることになります。

 成績の変化を、生活の変化と同期させて考えようとする視点もそのひとつです。顔色が悪い、表情が変だといった理由で子どもを呼び出すのは難しくても、成績が下がったから話を聞きたいというのは糸口として使いやすいものです。呼び出して話を聞いてあげましょう。

 どうでもいいような校則が山ほどあるというのも網のひとつです。服装のきまりなど典型で、気持ちに揺れは服装違反として、あるいは汚れとして表に出ることがとても多いのです。いわゆる「服装の乱れは心の乱れ(を表現する)」です。
 子どもの服装や持ち物に注意を怠らず、変化があれば校則違反を盾に呼び出して、じっくり話を聞く、それもよくある有効なやり方です。

 教室の中に何人もの密告者を育てている教師もいます。密告者と言えば人聞きは悪いのですが、要するに正義の告発者です。普通の教員は意図してやったりはしませんが、自然にそういう子どもの情報網が張り巡らさせる教師がいます。どうやるのか――。
 子どもは簡単に友だちを裏切ったりしませんから、「嫌な思いをしたらいいに来なさい」とか「悪いことをしている友だちがいたら知らせて」とか「いじめられている人がいたら教えて」とか言ってもほぼ言いに来たりしません。
 それでも彼らが仲間を大人社会に密告するとしたら、それは友だちを悪事そのものから救いたい、これ以上悪くなりそうな友だちを何とかしたい――そう強く感じたときだけです。
 もちろんそうした考え方・感じ方は教育によってしか醸成することができません。教師が道徳の時間や担任講話の時間を使って育てるべき力は、そういうものです。
 (この稿、終了)