カイト・カフェ

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「“その他大勢のひとり”でいるのは嫌だ!」~校則の話⑤

 すべて子どもは、誰かに誉められたいと思っている
 いい奴だ すごい奴だと言われたいと思っている
 学校の場合 勉強のできる子 スポーツや芸術で活躍できる子
 特別の趣味を持っている子は いきいきと生きていける
 しかしそうでない子は 何を以て差別化を図ればいいのか
というお話。

f:id:kite-cafe:20190906071736j:plain(マイルズ・バーケット・フォスター 「サクラソウ」)

 

 【子どもを信じること】

 あらゆる教育の専門家が「子どもを信じなさい」と言います。

 しかし子どもが万引きしたといって呼ばれた警察署で、
「ウチの子は絶対に悪いことはしないと信じていました」
と言えば周囲の大人(主として警察官)に笑われます。絶対に悪いことをしない子どもなんて、めったにないからです。
 これは親の信じ方が悪い。

 普通の子に「あなたは絶対に東大に入ってくれると信じてる」とか「オリンピックで金メダルを取ってくれると信じている」と言えば、子どもの方が怯えます。
 信じることは大切ですが、信じ方を間違えるとロクなことがありません。

 「子どもを信じろ」というのはせいぜいが、
「悪くなりたいと思っている子はひとりもいない」
「いつまでも悪く言われる状況のままでいいと思っている子もいない」
「良くなりたい、みんなからいい奴だ、すごい奴だと言われたいと思っている」
と、その程度のことです。しかしとても大切なことです。
 
 

【差別化の問題】

 多くの子どもにとって最悪の自分というのは「その他大勢のひとり」でしかない自分です。「平凡なヤツ」「つまらないヤツ」と思われることを耐えがたいと感じている子は、たくさんいます。
 彼らは自分が「特別な何者か」でなくてはならないと思っています。「ナンバーワンにならなくてもいい」ですが、「特別なオンリーワン」でなくてはならないのです。そこで「特別な何者か」になるための行動を起こします。
 これを差別化と言います。

 それはある意味難しく、ある意味で簡単です。
 学校の児童生徒・学生の場合、差別化を図る一番確実な方法は“勉強ができること”です。やればやるほど成績の上がるような子は自己肯定感も効力感も高く、いきいきと生きて行くことができます。
 スポーツのできる子も差別化に成功しやすい子たちです。記録や成績で「オンリーワン」の自分を確認できれば、学校ではある意味、勉強ができることよりも高い価値があります。
 芸術――吹奏楽だとか美術とか、最近では書道パフォーマンスみたいなのもありますから、そうした分野で力の発揮できる子も、他の方法で差別化を図る必要はありません。今、手の中にあるもので活躍できます。
 
 さらに言えば、校内に活躍の場がない子でも、「オンリーワン」の何かを持っている場合があります。
 オタク文化にどっぷり漬かっているとか、読書三昧のだとか、ゲームに魂まで奪われているとかいった子たちはそもそも学校という世俗の人間関係から距離を置いていますから、自己の位置については気にならないのです。最初からオンリーワンなのです。

 問題はそれらいずれにも属さない子たち、特にこれといった活躍の場や居場所を持たない子たち――彼らはどうやって差別化を図ればいいのでしょうか。?
 ファッションはこうした場合、一番簡単な方法のひとつです。そして、だからこそ校則問題の中核となっていくのです。
 
 

【画一化または同一化の問題】

 差別化の問題としてファッションを考えるとき、ひとつの大きな壁にぶつかります。
 差別化が指向性なく行われるのではないということ、つまり必ずモデルがあって、そちらに一斉に流れていくという点です。
 現在だったら髪はソフトモヒカンだのツーブロックだの。女性のヘアスタイルは分かりませんが、今どき聖子ちゃんカットにしたがる子はいないでしょう。

 ファッションで差別化を図る子たちのほとんどは、完全なオンリーワンを求めているわけではなく、どこかで同一化に向かっていくのです。

 私は昔、髪を染めたがる生徒に対して、
「茶髪で個性たあ笑わせるぜ! 茶髪なんて世の中にいくらでもいるじゃないか。髪で個性を主張したければチョンマゲにして来い、チョンマゲだったら認めてやる」
 そう言って嘲笑うことがありましが、あながち冗談でもありません。差別化といってもチョンマゲ姿や坊さん然としたスキンヘッドにする子はいないのです。

 大昔の長ラン・ボンタンから始まってリーゼント、ヤンキー、コギャル、ギャル・・・。スカート丈の検査はブラック校則を語る人たちが必ず取り上げる例ですが、短すぎると指導した時期も長すぎると指導した時期もあるものの、長短まじりあっているので適正な長さにといった指導はしたことがありません。どちらか一方、そのときの流行に左右されるのです。
――つまりほとんどの差別化は「こちらの制服を捨てて、あちらの制服を着る」という形で行われます。

 その結果、同じようなファッションに身を包んだグループが学校の内外に形成されます。個々だと対応できる子どもたちが、集団に育って行きます。やがて集団に入るために同じ装束を身に着ける子も出てくる、そうなると厄介です。

 ファッション・アイテムが指定暴力団の金バッジのような働きを担うようになる――教師が子どもとは別の意味でファッションに敏感になるのはそのためです。

                           (この稿、続く)